そののち、方上荘は摂関家の氏長者が代々継承する殿下渡領の一つに数えられるが、平安末期の文書には本田一〇〇町とみえる(文一九二)。また、同じく殿下渡領の東北院領の荘園で、十一世紀半ばに成立したと推定される曾万布荘の場合は本免田三五町といわれている(文一八九)。本田とか本免田は、すでに若狭国で説明したように、国衙に対する年貢課役が免除されている田地の集合体であって、平安時代中期の荘園の一般的な形態であった。したがって、越前国においても十〜十一世紀に免田型荘園が摂関家領を中心に形成されたのである。
ところで、方上荘の本田一〇〇町が不輸とされた時、「加納・寄人等を停廃」したことが注目される。もともと方上荘の本田が何町であったかは明らかでないが、出作・加納という形態をとってしだいに拡大していったことは疑いなく、国衙は一〇〇町を不輸とする代わりに加納・寄人を停廃し、荘園の拡大を防止しようとしたのである。しかし、本田を耕作している田堵が「国領兼作の威を募り、所当を弁済」しない、というように荘園領主から非難されていることから、免田型の荘園においては固有の荘民は存在せず、公領の田堵に荘田(本田)の耕作がゆだねられていたのである。このため田堵は、ある時は国衙の威を借りて荘園の年貢を滞納し、またある時は荘園の寄人になって国衙に抵抗したのである。 |