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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    三 越前国における荘園公領制の成立
      摂関期の荘園―方上荘と曾万布荘―
 次に、平安時代に成立した荘園の形成・確立過程について考えてみたいが、方上荘の史料上の初見は延長五年であって、ずば抜けて早い(記一)。ついで、天暦五年(九五一)の「足羽郡庁牒」(寺六二)にも方上荘の名がみえる。この文書は、東大寺領の初期荘園である道守・鎧・糞置などの荘田が荒廃して、寄作人もいない状況を報告したもので、郡司の一人として「検校方上御庄惣別当生江(草名)」が署名している。これらの簡単な記事からはどのような荘園なのかよくわからないが、後者の崩壊寸前の初期荘園の実状を記した文書に、新たに形成され中世に発展する荘園の名がみられるのはきわめて象徴的である。  
写真110 方上荘比定地付近(旧今立郡片上町)

写真110 方上荘比定地付近(旧今立郡片上町)

 そののち、方上荘は摂関家の氏長者が代々継承する殿下渡領の一つに数えられるが、平安末期の文書には本田一〇〇町とみえる(文一九二)。また、同じく殿下渡領の東北院領の荘園で、十一世紀半ばに成立したと推定される曾万布荘の場合は本免田三五町といわれている(文一八九)。本田とか本免田は、すでに若狭国で説明したように、国衙に対する年貢課役が免除されている田地の集合体であって、平安時代中期の荘園の一般的な形態であった。したがって、越前国においても十〜十一世紀に免田型荘園が摂関家領を中心に形成されたのである。
 ところで、方上荘の本田一〇〇町が不輸とされた時、「加納・寄人等を停廃」したことが注目される。もともと方上荘の本田が何町であったかは明らかでないが、出作・加納という形態をとってしだいに拡大していったことは疑いなく、国衙は一〇〇町を不輸とする代わりに加納・寄人を停廃し、荘園の拡大を防止しようとしたのである。しかし、本田を耕作している田堵が「国領兼作の威を募り、所当を弁済」しない、というように荘園領主から非難されていることから、免田型の荘園においては固有の荘民は存在せず、公領の田堵に荘田(本田)の耕作がゆだねられていたのである。このため田堵は、ある時は国衙の威を借りて荘園の年貢を滞納し、またある時は荘園の寄人になって国衙に抵抗したのである。



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