古代の越前国においては、東大寺領荘園が多く経営されたが、十世紀になると、このような初期荘園はほぼ解体した。これに代わって、どのような荘園が新たに形成されてくるのかを考えてみたいが、越前国には若狭国大田文のような一国規模で荘園と公領の分布をみわたせる史料が現存しないので、個別的な荘園や公領の史料から検討してみる以外には方法がない。
そこでまず、平安時代に初見史料がある荘園、および初見史料は鎌倉期であっても平安時代の成立と推定される荘園を郡ごとに検出してみたい。
〔敦賀郡〕
気比荘 安元二年(一一七六)初見、気比社領、本家は九条家(文二〇一)
〔南仲条郡〕
脇本荘 十二世紀前半の成立、待賢門院領か(島田文書『資料編』二)
〔丹生北郡〕
志津荘 寛治四年(一〇九〇)初見、賀茂御祖社領(賀茂社古代荘園御厨『資料編』二)
大蔵荘 嘉応元年(一一六九)初見、平清盛家領→永万年間(一一六五〜六六)最勝寺領(文一九六)
石田荘 嘉応元年初見、仁和寺領、大蔵荘の北に接する(文一九六)
鮎川荘 建久二年(一一九一)の初見であるが、摂関家領→高陽院領→近衛家領(『吾妻鏡』、近衛家
文書『資料編』二)
〔今南東郡〕
鞍谷荘 安元二年初見、八条院領(文二〇一)
〔今南西郡〕
鯖江荘 平安末期に摂関家領、鎌倉期は九条家領(九条家文書『資料編』二)
西谷荘 平安末期、安楽寿院領(高山寺文書『資料編』二)
〔今北東郡〕
方上荘 延長五年(九二七)初見、平安末期は殿下渡領(記一・九一)
河和田荘 長承三年(一一三四)初見、法金剛院領(文一七六)
泉北御厨 承安四年(一一七四)初見、伊勢神宮領(編八四一)
〔吉田郡〕
曾万布荘 長寛二年(一一六四)の初見であるが、十一世紀半ばの成立、東北院領(文一八九)
河北荘(河合荘) 嘉応三年成立、守覚法親王領→皇室領・仁和寺領(宮内庁書陵部所蔵文書『資料編
』二)
志比荘 承安四年初見、最勝光院領(『吉記』)
今泉荘 治承四年(一一八〇)初見、摂関家領→皇嘉門院領→信円法印領(文二〇三)
藤嶋荘 建久元年「藤嶋保」と初見するが、平家没官領→平泉寺領・延暦寺領(『吾妻鏡』、『門葉記』)
〔足羽南郡〕
宇坂荘 仁平三年(一一五三)初見、摂関家領→高陽院領→近衛家領(京都大学文学部博物館所蔵『
兵範記』裏文書、近衛家文書『資料編』二)
和田荘 平安末期の成立か、長講堂領(京都大学文学部博物館所蔵島田文書『資料編』二)
〔足羽北郡〕
木田荘 長治元年(一一〇四)初見、興福寺領(『類聚世要抄』)
足羽御厨(足羽荘) 承安元年成立か、伊勢神宮領(文二二一)
蕗野荘 平安末期、安楽寿院末寺興善院領(高山寺文書・竹内文平氏所蔵文書『資料編』二)、「蕗野保
」とみえることが多い。
〔足羽郡〕
大岡南荘 文治二年(一一九六)の初見であるが、平安期の成立、醍醐寺別院弥勒寺領(編八八六)、
比定地未詳
〔大野郡〕
牛原荘 応徳三年(一〇八六)成立、醍醐寺円光院領(編七一〇)
小山荘 十二世紀前半の成立、藤原成通の寄進により安楽寿院領(文二〇一参考、一乗院文書『資料
編』二)、鎌倉期には小山・泉荘と併称される。
〔坂南郡〕
榎富荘 寿永三年(一一八三)初見、後白河院の寄進により粟田宮領(文二一五)
〔坂北郡〕
河口荘 康和二年(一一〇〇)成立、後白河院の寄進により興福寺・春日社領(編七三〇)
坂北荘 平安末期の成立か、長講堂領(京都大学文学部博物館所蔵島田文書『資料編』二)
これだけのデータから、越前における荘園制形成の特色を論じることは難しいが、一定方向は読み取ることができる。すなわち、上皇や女院の御願寺を中心とする皇室領が多く、これに摂関家領が次いでいる。若狭においては、後白河院政期に延暦寺・日吉社の山門勢力の浸透が著しかったが、越前では平安時代に山門領であることが確実なものを検出することができない。
しかし、日吉神人の活動が及んでいることは疑いなく、保安四年(一一二三)越前守平忠盛が国内で日吉神人を搦め取ったことに抗議して、山門衆徒が神輿をかついで入洛している(編七五六)。また、保延二年(一一三六)には散位藤原忠恒という人物が木田荘住人検校の請文によって日吉上分米を日吉神人から借りていたことが知られる(文一七七)。ただし、久安三年(一一四七)に延暦寺が平泉寺の末寺化をめぐって園城寺と争っており(編七九三)、また藤嶋荘が延暦寺領となるのが建久六年であることなどを考慮すると、越前に山門の支配が強く及ぶようになるのは鎌倉時代初期以降である。 |