目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    二 若狭国における荘園公領制の成立
      院政期の荘園
 ところが、十一世紀末以降の院政期になると、若狭国においても荘園の成立が広汎にみられるようになってくる。すなわち、DからHにいたる所領のほとんどは、院政期から鎌倉時代初期の十二世紀に成立したと考えられるのである。
 ところで、大田文ではこれらの所領を新荘・便補保・山門沙汰・園城寺沙汰・その他、の五つに分類している。本荘と区別される新荘、および中央官衙や六勝寺(白河・鳥羽上皇らが京都東山の岡崎付近に建立した法勝寺・尊勝寺など六つの国家的寺院でいずれも勝の字がつく)などに公領である保を割いてその所領とした便補保(便補は便宜補填の意)は、区分がはっきりしているが、山門沙汰以下の区分はなぜ設けられたのであろうか。山門沙汰と園城寺沙汰に分類された所領は、保・郷・名・浦・寺などさまざまな名称の別名を含んでいて、荘や便補保に簡単に分類できないため、領有者によって区分したのではないかと思われる。したがって、その他とされる所領は、山門や寺門(園城寺)以外の領有者ということになるが、ここに本来ならば新荘に分類されるべき西津荘(神護寺領)がなぜか記載されている。その理由は詳らかではないが、西津は古くからの湊であって、浦に類似する特殊な所領として別名とみなされたのではなかろうか。
 D〜Hに分類された個々の所領がいつどのようにして成立したのか、ということについてはすでに詳細な考証があるので(網野前掲書)、以下これにしたがって諸荘園の成立時期、領主別の特徴、さらに地域性などについて考えてみたい。
 新荘は一一荘あるが、このうち成立年代がほぼ明らかな荘園は次の三荘である。
  名田荘 永暦二年(一一六一)左衛門尉盛信の私領認可→安元元年(一一七五)ごろ立券荘号
  前河荘 仁平二年(一一五二)国司免判による四至内開発→同三年不輸神領→仁安三年(一一六八)立券荘号
  向笠荘 正治元年(一一九九)伊勢内宮領として国司免判→建仁三年(一二〇三)宣旨による立荘
このほか、立石荘は治承四年(一一八〇)以前の成立、三宅・吉田両荘は建久二年(一一九一)以前の成立であることは確実であるが、どこまでさかのぼれるか不明である。
 便補保は六保あるが、このうち成立年代が明らかなのは、国富保(永万元年成立→建久六年立券荘号)のみである。ただし、恒枝保は大治元年(一一二六)以降の成立、永富保は承暦元年(一〇七七)ごろ、藤井保は康和四年(一一〇二)ごろ、今重保は元永元年(一一一八)ごろの成立とそれぞれ推定される。
 山門沙汰・園城寺沙汰・その他のうち、成立年代が明らかなのは、玉置郷(元暦元年源頼朝が寄進)のみである。ただし、山門沙汰のうち、織田荘の加納と考えられる山東・山西両郷、菅浜浦、三方寺、太興寺は、いずれも建暦三年(一二一三)「延暦寺慈鎮所領目録写」(京都大学文学部博物館所蔵文書『資料編』二)にみえるので、十二世紀末の成立と考えられ、その他の西津荘の初見は嘉応二年(一一七〇)である(文一九七)。
 以上示したように、残念ながら成立年代が確定できる所領はきわめて少ない。しかし、一定の傾向はうかがえるのであって、これらのなかでは便補保の成立が早く、十一世紀末〜十二世紀初めの白河院政期に多い。ついで新荘ということになるが、史料上確認できる荘園はほとんどが十二世紀後半の後白河院政期である。しかし、成立年代の確定できない荘園も多いことを考慮すると、一一三〇〜五〇年代の鳥羽院政期に成立した可能性も十分あるので、新荘は鳥羽〜後白河院政期の成立とみておきたい(石井進「院政時代」『講座 日本史』二)。山門沙汰以下の所領はその成立がもっとも遅れるようで、十二世紀末が多いのではないかと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ