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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    二 若狭国における荘園公領制の成立
      中世荘園の特色
 このように、若狭国において中世荘園が形成される画期は十二世紀であるが、それはどのような特色をもつ荘園なのであろうか。すでに述べたように、摂関期の荘園は免田として認可された田地の集合体にすぎなかったが、十一世紀半ばごろになると、免田の周辺に出作・加納の地が形成され、事実上荘領が拡大したため、国衙と荘園領主の紛争が頻発した。十一世紀後半の延久の荘園整理令の目的の一つは、不当に拡大した出作・加納を抑制することによって、このような紛争の解決をめざすものであった。しかし、院政期(とくに十二世紀)にはいると荘園は濫立され、しかも領域型荘園とよばれる田畠と集落と山野河海を包含した地域的な荘園が成立してくるのである。
 たとえば、遠敷郡西南部の山間荘園である名田荘は、左衛門尉盛信の開発私領が基礎になっているが、「限東大河、限西上林山、限南丹波山、限北武味山」という四至で区画される広大な地域を占めている(文一九四)。また、太政官厨家領(太政官が管轄する儀式・法会やその事務を執る厨家の運営にあてる所領)として知られる遠敷郡国富保(のち国富荘)は、「東限山峰、西限山峰、南限次吉并神女崎、北限山」という四至をもち、五本の示で区画されていた(吉川半七氏所蔵文書『資料編』二)。このような領域型荘園は、名田荘が上村・坂本村・中村・下村(以上、上荘)・知見村・三重村・田村(以上、下荘)から構成されていたように、村落を基礎にもつ荘園であったのである。ここに中世荘園の最大の特徴がある。
 次に、荘園の領主別の特色をみてみたい。表46に整理したように、延暦寺(山門)・日吉社領が一二あり、田数も全体の約三〇パーセントを占めており、ほかの領主を圧倒している。ただし、本荘はごくわずかであって、摂関期においてはさしたる勢力でなかったが、新荘と山門沙汰が形成される院政期、とくに後白河院政期に著しく所領が増大している。山門についで多いのは皇室領で、さらに園城寺(寺門)領がこれに続く。皇室領は白河・鳥羽上皇などが建立した六勝寺、あるいは後白河上皇が建立した長講堂・蓮華王院などの所領であって、便補保が半数近くを占めているところにその特徴がある。寺門領は本荘の時期にすでに一定の所領をもっており、以後も着実に所領をふやしている。山門と寺門とで五〇パーセント近くの田数を占めているのは、やはり地の利というべきであろうか。

表46 若狭国荘園の領主別田数

表46 若狭国荘園の領主別田数



表47 若狭国荘園の地域的分布

表47 若狭国荘園の地域的分布
 さらに、荘園の地域的な分布をみておきたいが、各郡別の分布を表47に示した。摂関期の本荘の段階では、国衙のある遠敷郡に少なく、その周辺部の三方郡や大飯郡に荘園が多く成立した。しかし、新荘・便補保が形成される院政期になると、穀倉地帯の遠敷郡で激増し、総計では田数の半分近くを占めるにいたっている。大飯郡では新荘がある程度成立するものの、便補保や山門・寺門沙汰などはなぜか皆無である。山門沙汰が著しいのは三方郡である。三方郡にはもともと本荘である織田荘(天台常寿院領)があり、これを拠点にして加納地が山東・山西両郷に拡大したためで、山門は北陸道に沿って北上する形で勢力をのばしたように思われる。
 



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