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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    二 若狭国における荘園公領制の成立
      摂関期の荘園
 それでは、このような荘園と公領の分布はどのようにして形成されてきたのであろうか。荘園の形成から考えることにしたいが、まず大田文の荘田が本荘と新荘に区分されていることに注目したい。本荘の総計は一二九・一町余とあるが、その内訳である賀茂荘以下の所領の田数を合計すると、これよりもはるかに多くなり、いずれかの所領に誤写があると思われる。ここでは山西郷と山東郷は織田荘の内訳であると理解して考察を進めることにするが(このように考えても数字の整合性にはほど遠い)、そうすると本荘は賀茂荘・賀斗荘・立石荘・織田荘・左古荘の五荘である。
 これら五荘は、いずれも出作・加納の地(本来認められた地域以外に耕作した土地で、荘園の付属地として承認され、新荘ともよばれる)を別にもっていることが注目される。すなわち、賀茂荘は応輸田の宮川保・同新保の除田に賀茂出作田、賀斗荘は応輸田に加斗加納、立石荘は新荘のうちに立石新荘、左古荘は応輸田に左古出作がある。また山門沙汰(延暦寺領)に分類された山東郷と山西郷は織田荘の加納と考えられる。したがって、本荘に記された五荘の田地は本免田(本来の免田。免田は官物・雑役のすべて、あるいはいずれかの負担を免除された田地の集合体で、一か所にまとまっているとは限らない)として認可されたもので、左古荘を除いて、田積がいずれも五の倍数になっていることもこれを裏付けている。すなわち、本荘は荘園の領有が免田に限られていた段階に成立した荘園(免田型荘園)で、十一世紀後半以前の摂関期の成立と考えられるのである(網野前掲書)。このように、平安時代中期の摂関期においては、荘園の成立はごくわずかであって、しかも特定の田地が国衙にたいする年貢課役を免除されているに過ぎない、きわめて限定されたものであった。



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