若狭国において荘園公領制がいつどのようにして形成されてくるかを考えるにあたって、その手がかりとなるのは、やはり先にふれた文永二年(一二六五)の大田文である。この大田文は、鎌倉時代の国衙が年貢課役を賦課するために作成した一国規模の土地台帳であって、中世の荘園や公領(国衙領ともいう)の分布と実態を知ることのできる好史料なので、ここでも荘園公領制の形成過程を明らかにするのに必要な限り分析してみたい。
鎌倉時代も後期に入ろうとする時期に作成された大田文から、平安時代中末期の荘園公領制の形成過程を読み取るためには、一定の史料操作が必要である。いうまでもなく、この大田文は文永二年の国検(国衙による国単位の検注)にもとづいているが、そこに載せられた所領区分などがいつごろの実態をもっともよく反映しているのかは別問題である。大田文の記載内容は、所領区分にとどまらず田数などについても、一般にかなり早い段階で固定され、それがそのまま踏襲される傾向があり、若狭国の場合は嘉禎二年(一二三六)から翌年にかけての国検によるものではないかと推定されている(網野善彦『日本中世土地制度史の研究』)。すなわち、十三世紀前半は全国的にみて荘園公領制が確立する時期と考えられているので、この大田文は、若狭国において荘園と公領の分布がほぼ確定した段階の様相を示しているものとして利用できるのである(嘉禎年間以後も荘園化が若干進行したことが知られる)。
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