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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    二 若狭国における荘園公領制の成立
      大田文にみる荘園と公領
 若狭国において荘園公領制がいつどのようにして形成されてくるかを考えるにあたって、その手がかりとなるのは、やはり先にふれた文永二年(一二六五)の大田文である。この大田文は、鎌倉時代の国衙が年貢課役を賦課するために作成した一国規模の土地台帳であって、中世の荘園や公領(国衙領ともいう)の分布と実態を知ることのできる好史料なので、ここでも荘園公領制の形成過程を明らかにするのに必要な限り分析してみたい。
 鎌倉時代も後期に入ろうとする時期に作成された大田文から、平安時代中末期の荘園公領制の形成過程を読み取るためには、一定の史料操作が必要である。いうまでもなく、この大田文は文永二年の国検(国衙による国単位の検注)にもとづいているが、そこに載せられた所領区分などがいつごろの実態をもっともよく反映しているのかは別問題である。大田文の記載内容は、所領区分にとどまらず田数などについても、一般にかなり早い段階で固定され、それがそのまま踏襲される傾向があり、若狭国の場合は嘉禎二年(一二三六)から翌年にかけての国検によるものではないかと推定されている(網野善彦『日本中世土地制度史の研究』)。すなわち、十三世紀前半は全国的にみて荘園公領制が確立する時期と考えられているので、この大田文は、若狭国において荘園と公領の分布がほぼ確定した段階の様相を示しているものとして利用できるのである(嘉禎年間以後も荘園化が若干進行したことが知られる)。

表45 「若狭国惣田数帳案」(太田文)の所領分類

表45 「若狭国惣田数帳案」(太田文)の所領分類
 そこで、大田文の記載順序にしたがって所領の分類を整理しみてみると、表45のようになる。一国の総田数二二一七・六町余が除田(国衙の課役が免除された田地)一五七四・一町余と応輸田(国衙の課役が賦課される田地)六四三・五町余に大別されるが、国衙のもっぱらの関心は自己の収取対象である応輸田の六七所領にあり、この部分の詳細な記載が大田文の中心的内容となっている。ところで、荘園公領制という場合、いったい大田文のどの部分が荘園で、どの部分が公領なのであろうか。厳密な意味での荘園は、B荘田(本荘・新荘)とHその他のうちの西津荘であるが、もうすこし広くとって、除田のうちのBとEFGHを合わせたものを荘園とみなすのが大田文の記載方法に忠実であろう。このように荘園を広義に理解すると、除田のうちのI不輸田(応輸田六七所領に含まれる寺田・神田・人給田や河成・不作などの不輸田をすべて抜き出して分類し合計したもの)とJ応輸田を合わせたものが公領ということになる。したがって、荘園は一〇三六町余、公領は一一八一町余となり、両者の総田数に占める割合は荘園約四七パーセント、公領約五三パーセントとなる。すなわち、荘園よりも公領の方がやや多いというのが、若狭国の荘園公領制確立期の実状であった(大山喬平『日本中世農村史の研究』)。
 



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