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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    二 若狭国における荘園公領制の成立
      別名と国衙
 このように、別名の多くは郷(あるいは保)から分出したものであるが、その地域別の成立状況は表48によってうかがうことができる。青郷以下九郷は、大田文に記載された郷のすべてであるが、先に述べたように、いずれも十一世紀半ばに成立したと推定される中世的郷である(『和名抄』郷に系譜を引くものが多い)。これらの郷のうち、遠敷郡の四郷のように、別名を多く成立させた郷ほど定田や所当米が少なくなっていることは明瞭である。大飯郡では青郷、三方郡では三方郷に別名がやや多く成立しているが、それでも遠敷郡ほどではない。すなわち、別名は国衙の所在地である遠敷郡において圧倒的に多く成立し、それにともなって郷の実態も大幅に変容したのである。

表48 若狭国別名の成立状況

表48 若狭国別名の成立状況
 それでは、別名は何を契機として成立したのであろうか。別名といっても、名・保・浦・出作・加納・寺・社など、名称からして多様であるが、ここでは数量的に多い名と保に限って考えてみたい。名や保もまたいろいろであるが、比較的一つの地域にまとまっているものと、いくつかの郡や郷にまたがって存在するものとがある。ここでは前者を地域型、後者を分散型とよぶことにし、地域型の例として太良保、分散型の例として今富名をとりあげてみる。
 太良保の大部分は遠敷郡西郷にあり、一部東郷にもまたがるが、よく知られているように東寺領太良荘に発展するまとまった地域である。下級貴族平師季とその子孫が開発し、十二世紀半ばごろ保号を獲得したもので、開発が別名成立の大きな契機となっている。また、太政官厨家領として便補された遠敷郡国富保も左大史小槻隆職の功力を投じた開発によって成立しており、地域型の別名の場合は開発地を特別な徴税地域として国衙が認可することによって成立したケースが多かったと考えられる。
 これに対して、今富名の場合は田地の大部分は遠敷郡にあるが、三方郡や大飯郡にも分散している。これは五五町余におよぶ大規模な名であって、国衙の有力な在庁官人によって相伝されている。このような別名の根底にも開発という契機を想定することができるが、その機能は在庁官人の得分として設定されたものである。これと類似した在庁名(国衙の種々の役人に給与された名)はかなり多くみられるが、すべてが分散型ではなく、地域的にまとまった小規模なものもある。いずれにせよ、多様な別名の成立過程には不明な点が多く、さらに複雑な経緯も予想されるので、今後の研究に待たねばならない。
 



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