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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    一 若越の中世的郡郷制
      十一世紀の国制改革
 第一節で述べられているように、十一世紀半ばは、王朝国家の地方支配のあり方が中世的なものに変化する大きな画期であって、公田官物率法の制定、および郡郷制の改編=中世的郡郷制の成立という国制上の改革が行われた(坂本賞三『日本王朝国家体制論』・『荘園制成立と王朝国家』)。
 公田官物率法とは、国衙による新たな徴税体系の制定である。十世紀には官物と臨時雑役を基本とする徴税が成立したが、その内部にはいまだ律令制的な収取である租や調が名称として存続していた。ところが、十一世紀半ば以降はこれらが消滅し、官物(のち年貢)と雑役(雑公事)に名称が統一され、官物は段別米三斗を基本額とするように改編された。段別米三斗はあくまで基本額であって、付加税の種類や額は国によって異なるが、これによって従来国司の恣意によって変動した官物の額が固定され、中世的な徴税体系が成立したのである。
 ここでは、いま一つの改革である中世的郡郷制の成立について具体的に検討してみたいが、それは古代の郡・郷が中世的な郡・郷に変化するという行政区画の変遷にとどまらず、公領における中世的所領の形成(荘園公領制の形成)を意味した。すなわち、律令制下の地方行政組織は国―郡―郷(里)という縦の系列からなっていたが、十一世紀半ば以降、郷や保・名・別符などが郡と並列される行政単位として国の直接的な支配をうけるようになり、しかもそれらは官人や在地有力者の私領となったのである。このような支配単位を中世的郡郷と総称するが、それらは「郡的単位」「和名抄郷単位」「院単位」および「別名」の四類型に分類できる。
 「郡的単位」とは、『延喜式』や『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)にみえる郡(古代的郡)が主に方位によって分割されたもので、東西南北あるいは上下を冠した郡・条のほか、郷などでも呼称される。「和名抄郷単位」とは、『和名抄』に記された郷名(古代的郷)が中世に継承され、しかも国衙に直結する支配単位になっているものである。「院単位」とは、国衙に直結する支配単位を院と称するものであるが、郡名あるいは『和名抄』の郷名を継承するものが多いので、「郡的単位」あるいは「和名抄郷単位」の変型とみなすことができる。ちなみに「院単位」は能登・紀伊・薩摩・大隅・日向など、特定の国にのみみられる。「別名」と称するものには、文字通り別名のほか、保・名・別符・郷・村などさまざまの呼称があるが、国衙に直結する別納の地(特別な徴税地域)として公認され、支配単位になっているものをいう。これら中世的郡郷の四類型のうち、「院」は八世紀末より推進された正倉(院)の郡内分置(郡衙に所属する収納施設を、防災のために郡内に分散すること)に起源があり、また郡の方位による分割も十世紀半ばごろからみられるが、所領として国内の支配単位に認定されるのは、十一世紀半ばごろからと考えられるのである。
 このような中世的郡郷が若狭・越前両国においてどのように形成されるのか、以下具体的に検討してみたい。なお、奈良時代(八世紀)の郡郷については、第四章第一節で詳細な考証がなされており、これを参考にするが、ここではそれよりものちの九世紀後半のものと考えられる『和名抄』の郡郷を、古代の最終段階の郡郷とみなして、分析の直接の前提としたい(池邊彌『和名類聚抄郡郷里驛名考證』、坂本前掲書)。



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