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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    三 越前斎藤氏
      私闘の世界
 開発所領の形成は、地域の平和なままでの分割の進行ではない。在地領主の日常はライバルとの激しい生存競争である。
 『尊卑分脈』傍注によると、疋田為盛は兄為忠に殺された。殺害事件は国外、おそらく京都で発生し、報復を恐れた為忠は永く越前に足を向けなかったらしい。「白山豊原寺縁起」には、「外舅監物大夫藤原の為盛俄に死亡の刻、其の男利延襁褓の間、以成成長の仁たるによって、不慮にかの家業を継ぐ」(写真109)とあり、為盛の外孫である以成が家業を継いだのは、突発の事件発生と嫡子たる利延がまだ赤ん坊だった特殊状況によるとしている。さらに『尊卑分脈』では、利延が為忠の子為吉を殺している。これは利延の成長後のことであろうから、一族対立はその後かなり長びいたとみなければならない。彼らの武装がここでも事態を深刻化し、私闘を恒常的なものとしているのである。
写109 「白山豊原寺縁起」

写109 「白山豊原寺縁起」

 なお、右の事件発生現場が暗示するように、在地領主の場合にあっても、中央と何らかの関係を結び、都に出仕するのは普通のことだった。『尊卑分脈』の傍注では、疋田・河合両系ともに、多く中央の滝口・武者所、兵衛・衛門の尉などの肩書きをもっている。具体的には、疋田以成が保元二年(一一五七)藤原基実の任右大臣の大饗の宴に右兵衛尉として姿をみせているほか(『兵範記』同年八月十九日条)、為頼の孫竹田基康と則光の曾孫景実の例があげられる。
 前者は、永久四年(一一一六)正月三十日に、きたるべき任官の準備として滝口の労(勤務実績)が上申されているが、上夜(宮中の宿直)すること通算二四二〇日とある(『除目大成抄』)。後者は康和五年(一一〇三)堀河天皇女御苡子の葬儀にあたり葬式の費用三万疋を献じた功により、飛騨守に任じられたのである(『本朝世紀』同年二月三十日条)。
 



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