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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    一 若越の中世的郡郷制
      若狭国の中世的郡郷制
 若狭国は、もと遠敷・三方の二郡であったが、天長二年(八二五)に遠敷郡から大飯郡が分立したので、『和名抄』は高山寺本(以下、高本)・大東急記念文庫本(以下、急本)ともに遠敷・大飯・三方の三郡を載せている。急本の遠敷郡の郷名には、大飯郡の郷名の混入などの明らかな誤写がみられるので、両本を総合してこれをただすと、遠敷郡は遠敷以下八郷、大飯郡は大飯以下四郷、三方郡は能登以下五郷からなっていたことがわかる。これら『和名抄』の郷名が中世にどのように継承されるか、文永二年(一二六五)「若狭国惣田数帳案」(東寺百合文書『資料編』二)などと対比してみると、図99のようになる。
図99 若狭国における郷名継承

図99 若狭国における郷名継承

 遠敷郡では、玉置郷・安賀郷・志万郷が『和名抄』の郷名を継承していることが明らかである。若越地域では神戸郷や余戸郷が中世に継承されることはほとんど考えられないので、これを除くと六郷のうち三郷であり、単純な継承率は半分である。このほか、「若狭国惣田数帳案」(以下、大田文)にみえる郷には東郷・西郷および富田郷がある。東郷・西郷は中手東郷・中手西郷ともよばれ(文一六七、「若狭国中手西郷内検田地取帳案」東寺百合文書『資料編』二)、中手は遠敷郡の中心部をさすと考えられるので、『和名抄』の遠敷・丹生両郷が再編成されたものとみるのが妥当である(須磨千頴「若狭国遠敷郡の条里について」『小浜市史紀要』五)。富田郷はいずれの郷から分出したものか不明であるが、富田という嘉名(縁起のよい名)を考慮すると、後述する国富保に類似した別名的な性格の郷ではないかと思われる。したがって、中世にまったく継承されない『和名抄』の郷名は野里のみということになる。
 大飯郡では、大田文にみえる本郷が大飯本郷をさすことが明らかで(本郷文書『資料編』二)、また阿遠が青に変化したことも疑いないので、『和名抄』の四郷のうち、大飯・佐分・阿遠の三郷が中世に継承されている。なお、阿遠は青郷のほか、青保にも受け継がれている。このように、大飯郡は『和名抄』郷の中世への継承率がきわめて高い。
 三方郡では、『和名抄』郷を確実に継承しているのは三方郷(および三方浦)で、弥美郷はおそらく西部地域が耳西郷となり、能登郷は能登浦にのみ継承関係がみられる。したがって、余戸・駅馬を除くと、三郷すべてが中世になんらかの形で受け継がれているといえよう。なお、大田文の「庄田」の項には山西郷と山東郷がみえるが、両郷は弥美郷から分出したものといわれている。
 以上、若狭国の中世的郡郷のうち、『和名抄』郷との継承関係について検討してみたが、三郡のいずれにおいても『和名抄』郷が中世に受け継がれる度合がきわめて高いことが明らかになった。したがって、若狭国の中世的郡郷制は「和名抄郷単位」を基本とするものであったと判断される。
 ただし、ここで注意をしておく必要があるのは、古代の郷の範囲がそのまま中世の郷になったのではないということである。すなわち、大田文を一覧すれば明らかなように、そこに書き上げられた所領は、郷のほかに、荘・保・名・浦などきわめて多数にのぼっており、所領の細分化が著しいのである。とくに保と名が多く形成されたのが若狭国の特徴であって、そのため古代の郷域は大幅に縮小されて中世に継承されたと考えなければならない。しかし、それでもなお『和名抄』の郷名が広汎に残存することに注目したいのであって、この点に次に分析する越前国との著しい違いがある。



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