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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    二 武者の家の形成
      越前在地との関連
 彼らの中央における地歩と存在の様態が、以上のように明らかになった。一言にしていえば、王家(天皇家)や藤原道長など当代の代表的な貴顕に仕える身辺の武力だということである。しかし、彼らが中央一辺倒の存在だったのか、在地との関連はどうなっていたかという疑問が残る。
 右の問題を考える素材として、次の事件が注目される。『小右記』によれば、前にみた藤原貞正が、永祚元年七月二十一日の午後遅く仇敵の三国行正を、京都の東の境界、東山の粟田口で射殺した(記六)。これには従兄弟の為延も同意しており、朝廷では検非違使に武芸人を加えて両名逮捕に向かわせたが、捕らえることができなかった。事件は『日本紀略』にもみえ、為延は為信、三国行正は雅憲となっている(七月二十三日条)。
 三国氏は、越前にあって古代以来の名族で坂井郡の大領をつとめた一族である(公二、寺五八)。行正(雅憲)と貞正・為延が敵対関係にあったのは偶然ではあるまい。おそらく貞正らも越前北部に勢力を扶植せんとする勢力で、在地における対立が所を変えて暴発したのではないか。斎藤氏は三国氏を脅かす新興勢力で、「越前でかねて反目していたに相違ない」という指摘もすでにある(米谷豊之祐「院政期滝口の私主との関係及び勤仕様態」『日本歴史』三八八)。
 つまり、彼らは中央で貴顕に仕えると同時に、越前在地とも関係を保っており、都と越前を往来し、地方経営の成果を都で運用し、都で得た物的・人的手段と情報を在地支配に利用するような存在だったのだろう。この種の地方居住を、歴史学では土着と区別し留住とよぶ。右のように考えると、利仁の母が越前秦氏で坂井郡を本拠としており、貞正・為延らが系図上その後裔となっていることは暗示的である。斎藤氏は秦氏の転身した姿か、もしくはその跡を継承した新興勢力だろう。後者だとしても、都に勇名を馳せた利仁将軍の末裔を名のるのは、一族の売りだしにとって損にはならない。



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