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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    二 武者の家の形成
      為延と則光
 伊傳の子為延は、永祚元年(九八九)に帯刀とみえる(記六)。帯刀は正式には東宮坊帯刀舎人といい、東宮(皇太子)警固の武官である。時の東宮は居貞親王で、即位し三条天皇となったが、藤原道長と折り合いが悪く五年後譲位に追い込まれた。三条天皇の第一皇子敦明親王も長和五年東宮となった。これもわが孫敦良親王を立てようとする道長の圧力をうけ、翌年東宮を辞退、小一条院の院号をうけた。『尊卑分脈』の為延には、越前国押領使、北陸七か国押領使のほか、小一条院帯刀長の傍注がある。これらの記述は信じてよいと思われるから、為延は不運な王統二代に護衛の武官として仕えたことになる。帯刀も武芸の試験を受けて採用される。帯刀は歩射と騎射に分けられ、指揮官が帯刀の長である。
 なお、『今昔物語集』三一―三一には、居貞親王の帯刀の詰所に、「干魚」と称して蛇の肉を売りにくる女が登場する。為延も蛇肉を「味ヒ美」しと食した、のどかな帯刀のひとりだったのだろうか。  伊傳の末子にあたる則光は『尊卑分脈』以外に裏づけとなる史料がない。その傍注には、越前国押領使・民部少輔・従五位下とあり、宇治関白家に祗候したとみえる。宇治関白とは道長の子宇治殿頼通である。



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