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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    二 武者の家の形成
      貞正と公則
 重光・伊傳の次の世代は、十世紀の後半から十一世紀の前半に生きた。摂関政治の全盛期とされる時代である。  まず重光の子貞正である。『尊卑分脈』には滝口とある。これは確かな史実で、『小右記』には寛和元年(九八五)藤原実資が藤原貞正を含めた五名を滝口に推薦し、旧来の一〇名に加えて滝口在勤者が一五名となったとある(六月二十二日条)。
図95 越前斎藤氏の源流

図95 越前斎藤氏の源流

 滝口は蔵人所に所属し、清涼殿の東北という天皇最身辺に祗候した「武勇に堪ゆるの輩」のことで、院宮・親王・公卿・侍臣が推薦する者のうちから選抜された。ことに弓の名手であることが要求され、選抜にあたり実際に射術が試された(吉村茂樹「滝口の研究」『歴史地理』五三―四)。実資が貞正を推挙したのは、当時蔵人頭の地位にあり、選抜の責任者を勤める職責を負っていたからで、貞正と個人的な関係があったからではない。
 「堪武勇之輩」は武士のことで、当時の用語では兵ともいう。武士とは個人的な武勇の士のことではなく、馬上の射芸を中心とする武という芸(兵事や戦闘技術)を家業とする専門職業者(武士身分)のことである。だから武士であるためには、なにより「兵ノ家」の「家ヲ継ギタル兵」でなければならなかった。こうした「兵ノ家」の一般的形成期はひとまず十一世紀初頭と考えられる(高橋昌明「騎兵と水軍」有斐閣新書『日本史』二)。貞正の世代はまさに中世につながる武士が本格的に登場してくる時代である。『尊卑分脈』では父重光も滝口になったとあり、事実なら二代続けて滝口に選任されたわけで、彼の家も「兵ノ家」の形成寸前にあったとみなしうるだろう。
 貞正の子右兵衛尉親孝は、『今昔物語集』二五―一一では源頼信の「乳母子」になっている。頼信は頼朝の遠祖である河内源氏の祖、平忠常の乱の平定者として知られる著名な都の武士である。乳母子ということは、親孝の母たる貞正の妻が頼信の乳母で、両者は同じ乳を吸って育った乳兄弟の間柄だったことを意味する。貞正は頼信の父満仲率いる源氏の傘下に入り、有力郎等として将来の発展をめざすようになっていたのだろう。満仲は天延元年(九七三)以前に越前守を経験しているので(『親信卿記』天延元年四月二十三日条)、あるいはその縁で貞正は彼を主人と仰いだのかもしれない。そして、親孝の甥景道の段階になると『尊卑分脈』が「頼義朝臣の郎等七騎その一」とするように、頼信の子頼義腹心の郎等として自他ともに許す存在になっていた。その子が「騎射を善くし」前九年の役で勇名を馳せる景季である(『陸奥話記』)。
 つぎに伊傳の子公則は、著名人で『栄華物語』にも登場する(二六「楚王の夢」)。施薬院使、信濃・河内・肥後・尾張などの国守を歴任し、「道長の近習」といわれた有力な家司である(『小右記』寛仁元年九月一日条、『御堂関白記』寛仁二年二月三日条)。彼は長和二年(一〇一三)には信濃守として、馬を東宮敦成親王および三宮敦良親王などに献じている(『御堂関白記』四月十九日条)。両親王は一条天皇と道長の娘彰子の子で、それぞれのちに後一条天皇・後朱雀天皇となった人物である。さらに彼は、河内守源章経の子となって源姓に改姓した。彼も河内源氏に臣従していたようで、『尊卑分脈』には、その子則経に「頼信朝臣の郎従」、孫則明には「頼義朝臣郎等七騎の内」の傍注がある。この一族は河内の坂戸(大阪府柏原市)を本拠とする武士団を形成し、坂戸源氏とよばれた。  公則は関戸院預もつとめており、治安三年(一〇二三)十月高野詣帰途の藤原道長を同院で饗応している(『扶桑略記』)。関戸院は摂津・山城国境の山陽道山崎関(大阪府島本町)の故地にあった。利仁が頓死したとされる山崎境でその子孫が関戸院を預かっていたというのは、偶然だろうか。



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