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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    一 利仁将軍とその伝説
      征新羅将軍
 当然、説話構成の典拠が問題になるが、ここに平安中期成立の『聖徳太子伝暦』がある。その推古天皇十年(六〇二)条には「(征新羅の大将軍である)来目皇子筑紫に到り、病に臥して進まず、(聖徳)太子これを聞き、左右に謂いて曰く、新羅の奴等将軍を厭魅す、疑って渡るを果さずと」、また同十一年条には「大将軍来目皇子、筑紫において薨ず、太子侍従に謂いて曰く、新羅の奴等、遂に将軍を殺すと」とあり、六〇一年から六〇三年にかけての新羅遠征の挫折と、その原因である「撃新羅将軍」来目皇子の死は、新羅側の呪詛によるもの、との理解が示されている。『今昔物語集』などの記事は、当時流布していた『聖徳太子伝暦』にみえる説を下敷きに、時代を平安前期、人物を利仁に置き換えたものである可能性が高い。
 では、なぜこのような翻案ができたのだろう。平安中期には原型が成立していた「鞍馬蓋寺縁起」に、利仁が下野高坐山の群党を機略で討伐する話がみえる。利仁の時代つまり九世紀末の東国にあっては、官物未納や国司への抵抗を中心とする反国衙闘争が頻発していた。こうした群党の構成要素の一つが東国に配置された俘囚で、たとえば貞観十二年(八七〇)の上総地方の俘囚反乱に対して、支配層は「凡そ群盗の徒、これよりして起こる」との認識を述べている(『三代実録』同年十二月二日条)。
 俘囚は律令国家に帰服した「蝦夷」の呼称であり、このような状況下では群党=俘囚=「蝦夷」の等式が成立しやすい。また、反逆者と国家領域外の民は、天皇の支配にまつろわぬという意味で同一視される関係にある。こうして、「蝦夷」との対決を任とする鎮守府将軍が、群党鎮圧に転用される可能性が生ずる。というより、当時の東国における鎮守府将軍は、むしろはじめからこれら反国家の諸群党蜂起を鎮圧することを使命として派遣されたらしい(高橋昌明「将門の乱の評価をめぐって」『文化史学』二六)。「鞍馬蓋寺縁起」における利仁の群党鎮圧説話も、そうした史実を反映したものであろう。
 ところで、九世紀後半から十世紀はじめにかけて新羅との緊張関係があり、新羅が滅亡し高麗が成立しても、これに対する忌避の感覚は継続していた。「蝦夷」と新羅は国家の領域外にあるという点で共通している。鎮守府将軍利仁が征新羅将軍にスライドしながら登場してくる回路はここにある。



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