芋粥説話は利仁の大尽ぶりに焦点を合わせるが、彼はもともと武人として著名である。平安末期成立といってよい『二中歴』一三に、「武者」として名があらわれ、室町期以降になると、坂上田村麻呂・源頼光・藤原保昌とならぶ平安時代第一級の英雄と目されるようになった。
藤原利仁は「利仁将軍」と将軍号をつけてよばれた。鎮守府将軍のほか、征新羅将軍として説話にあらわれたからと思われる。『今昔物語集』には、芋粥説話のほかもう一つ彼の登場する説話があり、それが征新羅将軍に関する話なのである(一四―四五)。
あらすじは、文徳天皇の時代、鎮守府将軍藤原利仁が新羅征伐の命を受け出征した。予兆によって事態を察知した新羅側は、唐の法全阿闍梨に頼んで調伏し、ために利仁は山城・摂津国境の山崎で頓死するというものである。同じ話が、平安後期の『打聞集』と鎌倉前期の『古事談』三にも載っている。ただし、時期の設定は少しのちの宇多天皇の時代(『打聞集』、『古事談』)、調伏の阿闍梨は不空(『打聞集』)、頓死場所も日本と新羅の境の海上(『古事談』)と若干の違いがある。
新羅征討が計画されたのは奈良時代の藤原仲麻呂の時であり、九世紀後半から十世紀初頭の利仁の時代には、新羅海賊の脅威に対し防備を強化する受け身の対応こそあったが、こちらから攻め込むという事実は存在しない。 |