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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    一 利仁将軍とその伝説
      説話の世界
 芋粥説話の主題は、思いがけず遠方に連れていかれた五位が意外な歓待をうけて富を得たところにある。この主題を強調し印象づけるため、利仁と敦賀の館が登場するのだから、その豪勢さは少なからず誇張されているのだろう。敦賀に誘い出されたのも、単純に利仁の本拠だからではすまないようだ。この点に関し、当時中央に食用としての薯蕷(山芋)を貢進する全国唯一の国が越前で(写真106)、「都人にとって越前は薯蕷の特産地というイメージが強かったのかもしれない」といわれていることが注目される(池上洵一「『今昔物語集』の芋粥」『論纂 説話と説話文学』)。
写真106  『延喜式』(法49)

写真106  『延喜式』(法49)

 芋粥説話は利仁の大尽ぶりに焦点を合わせるが、彼はもともと武人として著名である。平安末期成立といってよい『二中歴』一三に、「武者」として名があらわれ、室町期以降になると、坂上田村麻呂・源頼光・藤原保昌とならぶ平安時代第一級の英雄と目されるようになった。
 藤原利仁は「利仁将軍」と将軍号をつけてよばれた。鎮守府将軍のほか、征新羅将軍として説話にあらわれたからと思われる。『今昔物語集』には、芋粥説話のほかもう一つ彼の登場する説話があり、それが征新羅将軍に関する話なのである(一四―四五)。
 あらすじは、文徳天皇の時代、鎮守府将軍藤原利仁が新羅征伐の命を受け出征した。予兆によって事態を察知した新羅側は、唐の法全阿闍梨に頼んで調伏し、ために利仁は山城・摂津国境の山崎で頓死するというものである。同じ話が、平安後期の『打聞集』と鎌倉前期の『古事談』三にも載っている。ただし、時期の設定は少しのちの宇多天皇の時代(『打聞集』、『古事談』)、調伏の阿闍梨は不空(『打聞集』)、頓死場所も日本と新羅の境の海上(『古事談』)と若干の違いがある。
 新羅征討が計画されたのは奈良時代の藤原仲麻呂の時であり、九世紀後半から十世紀初頭の利仁の時代には、新羅海賊の脅威に対し防備を強化する受け身の対応こそあったが、こちらから攻め込むという事実は存在しない。



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