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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    一 利仁将軍とその伝説
      利仁の身辺
 中世の越前・加賀・越中の在地に勢力を張る諸武士団にとって、藤原利仁という人物は伝説的な始祖であった。『源平盛衰記』にも「先祖利仁将軍三人の男を生む、嫡男越前にあり、斎藤と云ふ、次男加賀にあり、富樫と云ふ、三男越中にあり、井口と云ふ、彼等子孫繁昌して、国中互いに相親しむ、されば三箇国の宗徒の者共、内戚・外戚に付て、親類一門ならざる者なし」とみえる(三〇「実盛討たる附朱買臣錦の袴並新豊県の翁の事」)。
 彼は、藤原魚名流で民部卿時長の子である(『尊卑分脈』)。父時長は仁和元年(八八五)肥後守になったが、任地に赴かず、警告をうけても腰をあげなかったので、位一階を下されている(『三代実録』仁和二年五月十八日条など)。お世辞にも良吏とはいえない人物のようだ。
 母は『尊卑分脈』に越前の国人秦豊国の女とある。越前秦氏は、おもに坂井・丹生・足羽の越前北部の各郡に展開していた(寺四四など)。『尊卑分脈』によれば、利仁の祖父高房が越前守に任じられているので、それが契機となって父時長が秦豊国に婿入りし、やがて利仁が生まれたのであろうか。芥川竜之介の短編「芋粥」の源話となった、『今昔物語集』二六―一七の著名な話では、利仁は敦賀の豪族有仁の婿だったとあるから、彼も父と同じような結婚をしたことになる。
 彼の実像はほとんどわからない。『尊卑分脈』に武蔵守、従四位下、左将監、延喜十一年(九一一)任上野介、同十六年(異本では十二年)上総介に遷る、同十五年鎮守府将軍の宣旨を蒙る、とあるが、確実な史料で確認できないものばかりである。延喜十四年に、藤原利平が鎮守府将軍として赴任したという記事があって(『侍中群要』九)、これが利仁の誤記だとすれば、鎮守府将軍だけは裏づけらしきものがある。
 彼の活動年代は、およそ九世紀後半から十世紀初頭である。芋粥説話では若年の利仁が「一ノ人ノ御許ニ恪勤」していたとある。「一ノ人」とは関白藤原基経とみてよい。つまり、彼は摂関家につかえる侍であったという設定になっている。



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