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 第六章 若越中世社会の形成
   第一節 王朝時代の政治と若越
    二 「開発の時代」と荘園整理
      院政の成立と荘園整理
 さきの丹生村処分状の翌年、大治二年の暮れに一通の私領寄進状である「僧永真所領寄進状」が作られている(写真105)。それは越前国大野郡内、のちの泉荘の基礎となる所領についてのものである。
 僧永真解し申す、私領を寄進するの事
  合わせて一処
   越前国大野郡内に在り<四至堺は公験面に見ゆ>
    本公験一通を副え進らす
 右、くだんの処はもとより常々の荒野の地な
り、しかれば今左中将殿の政所に寄進し、開発を致して御領となし、田数に随って両三年
の間段別参斗の官物を弁済せしむべし、後年においては傍例の率法に依るべし、但し、下
司の職においては永真が子孫を以て向後永代本家に勤仕せしむべきの状、くだんのごとし、以て解す
         大治二年十二月二十七日 僧(花押)
写真105  「僧永真所領寄進状」(文169)

写真105  「僧永真所領寄進状」(文169)

 「左中将殿」は、参議の従三位藤原宗輔である。白河院政下の重鎮で『中右記』の著者宗忠の弟、生母は左大臣源俊房の娘、そして自身も太政大臣の極官に昇りつめる。  いずれにせよ、開発本領主永真が誤またず宗輔を選びぬいてその所領を寄進したように、在庁官人層が国内の新興支配階層として勃興し、臨時雑役や公郷在家役などの賦課をテコとして他の私領主層への圧迫を強めるなかで、荘園寄進の衝動もまた激しさを増し、大きな政治的うねりとなっていった。
 丹生村の処分状、そして大野郡内開発所領の寄進状が作成されたのは、白河院政の最晩年、白河法皇の死の二、三年前のことであった。
 政治史の流れに話をもどせば、三年余の後三条天皇の治政とこれをうけた五七年間の白河天皇・上皇による治政は、たび重なる荘園整理令の発布と記録荘園券契所(記録所)の活発な活動によって、中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期であった。後三条天皇親政期の延久の荘園整理令は一般に、(1)寛徳二年(一〇四五)以後の新立荘園の停止、(2)公田加納の停止、(3)坪付の定まらない荘園の整理、(4)往古の荘園のうち券契の不明のものや国衙行政に支障のあるものの停止、の四項からなると考えられている。とくに(2)(3)については、各国衙レベルで国司による厳しい追及が続けられ、その過程で4すなわち券契(公験)の整備が進んだから、以上の全体を通じて荘園・公領の分離とそれぞれの領域の明確化が進展することとなった。
 さらに、このような動きのなかで、開発所領の権門勢家への寄進、すなわち開発所領に対する政治的・法的保障の獲得の気運にも拍車がかけられることになる。白河院政期の荘園整理令は、承保二年(一〇七五)から大治二年まで主要なもののみでも十数回を数えるが、さきの永真の所領寄進もこのような流れのなかでとらえることができよう。
 白河法皇の死、鳥羽院政の展開のなかで、荘園公領制はさらに成熟のときを迎えるのである。



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