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 第六章 若越中世社会の形成
   第一節 王朝時代の政治と若越
    二 「開発の時代」と荘園整理
      私領の開発と再開発
 十一世紀中葉の政策転換、とくに、郡郷制の改編と荘園公領制成立の具体像については、第三節で詳しくふれられる。そこでここでは、研究史上「大開墾の時代」ともいわれるこの時代の開発の様相について、若狭の一史料をもとに概観しておこう。  白河院政の最晩年、大治元年(一一二六)二月の「源某若狭国所領処分状案」は、若狭国の丹生村の私宅を中心とする所領が、丹生二郎隆清に譲られていることを示す文書である(文一六七)。
 所領田畠山林等を処分するの事
    合わせて
   中手東郷
    畠
    一所<山林を加うる定め> 字丹生村
    一所 字重則が妻の進らす畠<一丁三段四至は本券に見ゆ>
    田(一)丁九段  
    已上、坪付は別紙にこれ有り
   中手西郷
    畠
    一所 字大比江生畠<包安が居住>
    一所 字太郎畠<末恒が住>  
    田五反百八十歩
   青郷六か所 已上同前
    海一所 字鞍道浦
 右、くだんの所領田畠山林、相伝の領知なり、仍って二郎隆清に処分するところなり、更に以て他の妨げ・相論の輩有るべからざるなり、但し、おのおの四至・坪付有るにおいては、本公験明白なり、所分(処)の状、くだんのごとし
     大治元年二月 日
                   源 在判
                    証署を加うるなり
                   豊後大掾源 在判(傍点筆者−このHPでは省略)
写真104 小浜市太良庄

写真104 小浜市太良庄

 これは、東寺領若狭国太良荘の前史、丹生出羽房雲厳の所領につながる開発所領である。翌三月に作成された「若狭国恒枝名田坪付帳案」(文一六八)によれば、このうち田地(東郷一町九段・西郷五段百八十歩)はすべて遠敷郡の中心部である松永保内の恒枝名田地に編成されたものであった。さらに注目すべきは、この所領が、小規模とはいえ、領主私宅=「村」を中核としつつ「畠地」「山林」「海=浦」という領主的再生産のユニットを統合し、さらに畠地付属の「所従」(包安・末恒ら)をイエ支配のなかに組み入れた典型的な「開発私領」の構造をもっていたこと、さらにその外部において公領名田の一定の「所職」を保有する在地領主制の基本型をそなえていたことである。
 開発領主が自己の開発本領を中核=本拠としながら、周辺農民たちを債務関係に縛りつけ、代償労働の恒常的・強制的提供からやがて保有地ごとその身を従属下に編成する事例(「身曳」)は、中世を通じた普遍的運動であった。そして、この処分状のうち東郷の畠に書き記された「重則が妻の進らす畠」もまた、そのような背景を推測させるものがある。丹生・小浜から西に湾をへだてた「青郷六ケ所」は、あるいは四至の占定のみの開発予定地=「荒野」「常荒」の地ででもあったであろうか。
 院政期の法書『法曹至要抄』は、「荒地は開ける人を以て領主と為すべき事、(中略)開発の田地は皆、開熟の人を以て永く私財と為し、次第の手継(=開発の祖以来代々伝領の証券)を以て領掌せしむべし」と大開墾の時代の法理を高らかにうたいあげ、鎌倉期の法書『沙汰未練書』は「開発領主とは根本私領なり、また本領とも云ふ」「本領とは、開発領主として代々武家の御下文を賜る所領田畠などの事なり」と定式化している。根本私領(開発本領)の保持、そして絶えざる再開発(開熟)によって土地に新しい生命を吹き込むことこそ中世社会における土地所有の揺るぎなき基礎であった。
 西郷の畠の字「大比江生畠」は「大稗生ふる畠」とでも訓むのであろうか。一枚一枚の田・畠の個性の把握と限りない愛着に、絶えざる開発・再開発の刻印を読み取ることができる。



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