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 第六章 若越中世社会の形成
   第一節 王朝時代の政治と若越
    一 王朝時代の政治と社会
      受領の非法と郡郷制の改編
 さて、このような体制の成立は受領への国内支配権の事実上の委任と同時進行した。逆にいうと、受領たちは中央政府に対して収取物のうち一定額のみの上納を義務づけられることとなり、収取物のうち一定額の上納分以外は受領の私腹をこやす結果となった。こうして受領らは国内支配に独自の「創意」をこらし、非法な収取、郡司・百姓らに対する苛酷な支配が激しさを増していく。そしてそれは著名な永延二年(九八八)の「尾張国郡司百姓等解文」のように、郡司・百姓らの激しい憤激と抵抗を呼び起こした。坂本賞三は、天延二年(九七四)から永承七年(一〇五二)まで史料上に頻出する郡司・百姓らの抵抗運動を国司苛政上訴闘争と名づけ、その歴史的位置づけを試みた。坂本の表(『日本王朝国家体制論』)を再構成して次頁にかかげる(表44)。

表44 受領(国司)非法の上訴と善状提出

表44 受領(国司)非法の上訴と善状提出
 残念ながら、今日残る断片的な史料(公卿・寺社の日記や編纂物)のなかに若狭・越前の事例は少ない。ここでは、若狭・越前に関連するわずか一例、万寿元年(一〇二四)越前気比宮の神人らが加賀守但波公親を訴えた事例を紹介しておこう。いずれも当時の右大臣藤原実資の日記『小右記』の記事である。
 越前気比宮神人ら、陽明門において加賀守公親を愁う。公親が打ち損ぜる桙など、陽明門の内に立てたり(十一月二日条、記三七)。
 関白(藤原頼通)の御消息に云わく、「気比宮神人、日来公門(陽明門)に立てり。かの愁いの文を進らしむべし」てえれば、すなわち章信朝臣に仰せ訖んぬ(同八日条、記三八)。
 右中弁、気比宮神人の愁いの文を持ち来たる。くだんの愁いは三か条と云々、すなわち関白に奉れり(同九日条、記三九)。
 発端となった事件の経緯も朝廷での最終的処置(処分)の内容も史料的にまったく明らかでないし、越前の神人が加賀の国司を訴えた事件なので表44にももちろん掲載されてはいない。国内の寺社勢力と国司・在庁官人らとの神仏事の遂行や所領の認否、課役賦課・免除をめぐる紛争が多発するのは、むしろ院政期に入ってからであるが、「桙」の損壊が紛議の焦点になっているところからみると、気比宮の神事に対する妨害行為が事の発端だったのだろうか。
 郡司・百姓らの上洛・告発は数十人にのぼる大集団=大使節団で行われ、通過諸国の一定の了解なしには不可能な行動であること、告発=解文提出の場所が大内裏の公門(陽明門)と定められていたらしいこと、解文の文章が技巧をこらしかなりの知識・素養を基礎としなければ書けない体のものであったことなど、一定の「所作」があったらしい。だが、郡司=旧地方豪族と百姓=田堵・負名層との利害の矛盾・調整の問題を含めて、真の実相究明はむしろこれからの課題である。
 しかし、結果の方、すなわちこれら受領の非法・苛政への抵抗の頻発のなかで、中央政府の政策にゆるやかな転換がきざしてきたことについては、すでに具体的な指摘がある。すなわち、収取体系の面での改革=公田官物率法の成立と、行政機構・土地所有の面での改革=郡郷制の改編がそれである(坂本前掲書)。
 このうち公田官物率法とは、国家が公田と特定(認定)した土地に対し定率の租税を賦課する制度で、律令制の税制のなしくずし的な変化をうけ、最終的に「人」から「土地」へという賦課原則の大転換が確定したことを意味する。この税率は本来各国衙別に定められていったのだが、十一世紀中葉〜十二世紀初頭には、段別三斗という定率がほぼ全国的に成立したらしいことが諸種の史料によって確かめられる。後掲の大治二年の永真解に、「段別三斗の官物を弁済せしむべし」とみえるのもこの官物率法のことである。また、主に租の系譜を引く官物に対して、これ以外、すなわち調・庸・雑物に系譜を引く賦課物は臨時雑役という税制体系に一本化(統合)された。さらにこの臨時雑役のうち、伊勢神宮の造営や内裏造営・大嘗会挙行その他国家的大事については、各国衙のレベルを越え一国平均役という名の賦課が荘園・公領を問わずかけられていくこととなった。
 そして、以上のような定額賦課を実現するためには、その土台=基礎、すなわち何よりも公田の確定を含めた土地制度の整備が必要となる。領主的開発の大きなうねりをうけ、領主的土地所有を事実上公認しながらこれを国家的支配(収取体系)の下に再編成しようとする措置が、郡郷制の改編であった。すなわちそれは、律令制の地方行政機構(郡―郷の支配・管轄関係)を形骸化し、郡・郷・院・別名などをそれぞれ独立の所領(所有単位)として公認し同時に収取の単位ともする抜本的改革だったのである。
 郡郷制の改編はほぼ十一世紀中葉、そしてそれらを一国別に確定していったのが、後述の荘園整理と大田文=土地台帳の作成であった。
 もう一度受領と在庁官人・田堵・負名層の問題にかえっていえば、このうち、公田官物率法の成立は受領の国内支配の恣意性に制約を加え、上に向かっては中央国家の財政的基盤を安定させるとともに、下に向かっては在地社会に芽生えた私的・中世的土地所有に法的保障を与えることとなった。また郡郷制の改編は在庁官人層および田堵・負名上層ら新興の国内支配層に土地開発と所有のための安定的な政治的・経済的枠組みを提供するとともに、これら在庁官人層らを中央国家の直接の支配体制下に組み込む結果をもたらしたのであった。



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