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 第六章 若越中世社会の形成
   第一節 王朝時代の政治と若越
    一 王朝時代の政治と社会
      転換の時代と摂関政治
十〜十二世紀は、古代社会の解体、中世社会の形成・成熟に向けての転換の画期であった。第二節では、越前を中心とした武士団と領主制の形成、さらに第三節では中世所領すなわち中世的郡郷と荘園公領制の形成、第四節では中世成立期の水陸交通、そして第五節では環日本海地域=東アジア交流圏のなかでの若越の位置づけがそれぞれくわしく叙述される。そこで以下では、第二〜五節への導入として、十〜十二世紀の政治の動きを概観し、さらにこれに対応する若越地方社会の様相について紹介しておこう。
写真103 『延喜式』(法36)

写真103 『延喜式』(法36)


図94 貴族・官人社会の再編概念図

図94 貴族・官人社会の再編概念図

 転換期としての十〜十二世紀を特徴づけるのは、政治史の分野ではいわゆる摂関政治と院政の展開であり、法制史の分野では『延喜式』(延喜格式)=式制の成立と中世法の萌芽の形成であり、土地制度・収取体系(徴税制度)の分野では郡郷制の改編と荘園公領制の形成、そしてこれを基礎とする公田官物率法・一国平均役の体系の確立であった。  十〜十二世紀は、あらゆる分野で過渡期的現象=二重構造の社会が現出した時代であった。「権威」としての天皇と「権力」としての摂関家・院、「権威の源泉」としての律令と「現行法体系」としての式制、「形式上の徴税基準」としての公田と「支配・所有の実体」としての中世的郡郷と並べれば、その具体像のさしあたりの説明となりうるであろうか。そしてこの二重構造は、以後の中世社会においても、形を変えながら長い生命力をもち続けることとなる。
 さて、前述した承和の変・応天門の変ののち、昌泰四年(九〇一)には右大臣菅原道真が大宰権帥に左遷され、さらに安和二年(九六九)の安和の変では、源高明の一族が標的となった。醍醐源氏を葬り去った安和の変によって、藤原北家に対抗しうる勢力はほぼ一掃された。そしてこれ以後、政界中枢をめぐる抗争は北家内部の内訌・暗闘に移っていく。安和の変後、実頼から師輔流の伊尹へ、さらにその弟たち、すなわち兼通・兼家兄弟の暗闘を経て兼家の子道長へと、権力は移動した。
 藤原北家の兼家流による権力掌握の過程で、さまざまの政治的陰謀がくり返された。その陰謀の反復のなかで、藤原氏以外の有力貴族(豪族)はもとより、藤原氏の南家・式家・京家、そして北家内部においても兼家流とその周辺を除く広範な一族が権力中枢からはじき飛ばされた。摂関権力の確立は、こうして貴族・官人社会の大きな地殻変動をもたらすこととなった。
 大局的にいえば、こうして権力中枢からはじき出された圧倒的多数の貴族・官人層にとって,社会的活動の道は四つ残されていた。a中下級の実務官人としてその特殊技能(「家学」「家職」)を以て辣腕をふるい、王朝社会の政治的基盤を下から支える道、b都市京都と地方社会を往復して富を貯えると同時に、都市京都と地方社会の文化の伝播者・媒介者ともなる受領の道、c貴種性を最大限に活用しながら地方社会に定着し、そこに濃密な姻戚関係をはりめぐらし、独自の地域勢力圏を築き上げる地方軍事貴族=名望家の道、dもう一つの「世俗世界」、すなわち寺社勢力への転身の道、以上の四つがそれである。
 そして、a・bのさらに底辺に、中央国家の下級実務官人であると同時に地方国衙の目代・在庁官人などとして活動する社会集団(e)が存在した。かれらは中央国家の実働部隊であると同時に地方国司(受領)の補佐官、また土着して荘園公領の行政幹部ともなった。律令国家の屋台骨が傾き破産状態が深刻化するとともに、大量の「潜在的失業公務員」がはじき出された。かれらは自分たちの技能を買ってくれる新たな食い扶持を探さなければならなかった。それが地方国司(受領)の補佐官、そして荘園公領の行政幹部であった。以上を図式化すれば、図94のようになる。
 十世紀末、娘の紫式部を伴って雪深い越前に赴任した藤原為時はbの一人であり、第二節でくわしく述べられる藤原利仁すなわち利仁将軍など、まさしくcの典型といえよう。また第三節の荘園公領制形成に関連して、この時期、地方社会の国衙機構を支え地方行政の実務を担ったのは、a・bのさらに底辺でうごめいていた、e「潜在的失業公務員」から地方行政幹部への道を選んだ者たちであった。



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