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 第六章 若越中世社会の形成
   第一節 王朝時代の政治と若越
    一 王朝時代の政治と社会
      応天門の変と生江恒山
 九世紀半ば以降の社会不安の増大と中央政治の混乱は、結果的にみれば摂関政治成立へ向けての陣痛の開始であったともいえる。
 摂関政治とは、いうまでもなく藤原北家による政治権力中枢の掌握をさす。政治権力中枢の掌握は、古代以来の有力豪族の排斥と藤原氏内部の果てしない抗争・暗闘によってもたらされた。九世紀半ば、承和九年(八四二)の承和の変では伴健岑・橘逸勢らが謀反のかどで流罪とされ、伝統的な雄族伴(大伴)氏、そして聖武朝以来天皇家との姻戚関係を結んで政界に隠然たる勢力を誇った橘氏の無力化が進んだ。貞観八年(八六六)の応天門の変では伴善男・中庸、紀豊城・夏井らが断罪され、伴氏が最終的に切り捨てられるとともに、同じく古来の雄族紀氏が政治的に去勢されることとなった。
 ところで、応天門の変では伴善男の子中庸の従者(「僕従」)の一人で、越前国足羽郡を本貫とする生江恒山の断罪に関して『三代実録』に比較的くわしい記事が掲載されているので紹介しておこう(貞観八年十月二十五日条、編四九八)。
 越前国足羽郡の人生江恒山・因幡国巨濃郡の人占部田主ら、備中権史生大宅鷹取を殴り傷つけ、ならびに鷹取が女子を殴り殺せり。恒山ら言わく、「私主右衛門佐伴宿中庸の教えに随い、鷹取が女子を殴り殺せり」と。闘訟律に云わく、a「威力人をして殴撃して死傷せしめば、手を下さずと雖も(=従犯)たり。一等を減ず。ならびに遠流とすべしてえれば、恩詔を降し、斬刑死一等を減じ遠流に処す。(後略)
 恒山のもともとの出自である生江臣一族は、この直前の貞観八年八月に、今立郡大領生江臣氏緒の献物叙位の記事(編四九四)がみえることによっても知られるとおり、越前の郡司級豪族であった。恒山は太政官の最下級官人に相当する身分であるとともに、伴中庸の従者=下級の家人(家政機関の職員)でもあるような階層だった。事件は左京の人大宅鷹取の密告で発覚したが、尋問のさなかに嫌疑者の一類である恒山が鷹取の娘を殺害し、恒山への拷問でついに事件の全貌が明るみに出る。右に引いた『三代実録』の記事は、尋問ののち出された判決の一部である。
 国宝『伴大納言絵巻』には、事件発覚のきっかけとなった伴善男の家人の子と鷹取の子の喧嘩の場面が描かれているが(写真102)、恒山もちょうどこの家人と同じ階層・身分の者であった。律令制下においては、中央貴族と地方豪族との間に官職・身分(位階)のうえで厳しい格差があった。絶望的な壁といってもいい。地方社会の有為な人材の多くが、国学というよりは大学寮を経て自らの学才を社会に還元しようと志しながら、その厚い壁にはね返された。恒山の前半生がどのようなものであったのか、もちろん知るすべもない。しかし、伴善男の野望の陰で遠流となって果てた恒山の苛酷な運命にも、まさしくこのような律令制社会のもつ酷薄さが刻印されているといえよう。
 『三代実録』のこの記事には、今一つ注意しておくべきことがある。それは、断罪にあたっての律・令関連条文の厳格な引用・解釈である。ここで引用されているのは、闘訟律の第八条威力制縛人条(a)と第五条闘故殺用兵刃条(b)であり、きわめて正確で厳密な引用・解釈(適用)の行われていることが知られる。条文の引用・解釈・断案を行っているのは政府の法曹官僚=明法官人集団なのだが、貞観年間はこれらの明法官人集団によって律令注釈書が競って著わされ、さらにその集大成として『令集解』が編纂された時代である。これを反映して『三代実録』にも、明法家が地方の些末な事件をむし返し、国司を誤判の科で処分に追い込んだ記事など、ことさら明法家の「活躍」を誇示するような記事がしばしばみえる。
 しかし、律令そのものの学問的追求(解釈法学)が本格化し精緻化したこの時代は、皮肉にも当の律令国家自身の崩壊の画期であった。六国史最後の『三代実録』も律令注釈の最高・最大の集大成『令集解』も、その意味で律令制の最後を飾るあだ花であったととらえることができる。



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