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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    三 絵図の描写と資料的価値
      天平神護二年の絵図―道守荘・糞置荘―  
 天平神護二年(七六六)に作製された越前荘園の絵図を、正倉院展での展観や正倉院事務所撮影のカラー図版などによってみれば、山・岡の稜線や樹木の連なりの具合、また山腹の露岩や麓の草木の形状などが、濃淡の墨線を中心にして彩色の施された様子をうかがうことができる。
 今日、糞置荘や道守荘の絵図をみると、写実的に描いた山容は褐色に変色しているが、往時には緑青で彩られていた様子を推測できるなど、描写当時の生彩のある顔料に関心が向けられる。絵図の顔料について化学的分析を行った山崎一雄の調査結果によれば、朱(赤色)・鉛丹(赤色)・黄土(黄色)・緑青(緑色)・藍(青)などが検出されている(「正倉院絵画の技法と材質」『正倉院の絵画』)。それは、天平勝宝四年五月十一日付「写書所解」のなかに厨子の彩色料として朱沙・金青・丹・緑青・白緑・同黄・紫土・胡粉などが記されており(『大日本古文書』三)、多様な顔料が使用された実状を理解できることになる。したがって、絵図における描画と彩色の担い手としても、造東大寺司の下で動員された画師の役割に注目する必要があるであろう。

A 道守荘絵図

A 道守荘絵図



A 道守荘絵図


B 糞置荘絵図

B 糞置荘絵図


C 高串荘絵図

C 高串荘絵図

写真101 荘園絵図にみる山の描写(天平神護2年)

 天平神護二年十月二十一日付の現存絵図には、足羽郡道守荘・糞置荘絵図ならびに坂井郡高串荘絵図が知られている。このうち道守荘絵図では奥書署名部の大半が欠けているが、ほかの二枚には検定にかかわった国司・検田使として次の人びとがみえる。
 国司        天平神護二年十月二十一日 従七位下行大目大宅朝臣
 参議従四位下守右大弁兼行守藤原朝臣<在京>正六位上行掾佐味朝臣「吉備万呂」
 従五位下行介多治比真人「長野」        正七位上行少目丈部直(入部)
 従五位上守近衛少将兼行員外介弓削宿「牛養」
 正八位上守近衛員外将曹兼行員外少目榎井朝臣<大帳使>
 検田使
 少寺主伝灯進守法師「承天」 少都維那僧「慚教」
                    知田事伝灯進守僧「勝位」
                    造寺主判官外従五位下美努連「奥麿」
                    算師造寺司史生正八位上凡直「判麿」
 ここでの署名部の記載順序(国司→検田使)をみると、天平宝字三年十二月三日付の糞置荘絵図などの場合(検田使→国司)とは異なっているが、これは荘地の検定に際し、国司と東大寺(造東大寺司)側のどちらが主導性を発揮したかにかかわるものと考えられる。
 そこで、天平神護二年の道守荘と糞置荘絵図における景観描写について、とくに山岳描写に焦点を据えて比較してみよう(写真101)。両図は、ともに荘域内外の山並みの状況を側面から写実的にとらえ、山やまの重なり合う様子や、樹木・草木・岩石などをも丹念に描いている。この点は、現地に立って山やまを眺める限りにおいては限界は当然あるのだが、詳しく山名などを表示しているように自然環境や地理的状況につよい関心が寄せられていたことは確かである。山やまの描写は、奈良の都で流行し自ら体得していた画法によったのであろうが、越前在地でも実景を意識した写実的な描写が行われたものといえるであろう。
 両図の山岳描写にみられるその技術的水準の高さからすれば、その担い手については、単なる書生や経師による図中の数値筆録の部分と別個に理解する必要があるのではないかと思われる。では、越前で顔料を駆使しての山水表現を可能にした人は、いったい、どのような歴史的立場の人びとであったろうか。
 この点について考えられることは、国衙や郡衙組織のなかに画師もしくは描画の経験をもつ役人が在任した場合か、造東大寺司が越前に検田使として派遣したなかに、画師が加わっていた場合が想定される。そのいずれの場合にしても、当時、都で流行した唐風の山水の画法が越前における荘園絵図の描写にも反映していたという事実は重要であろう。
 そして、この背景にあったものは、天平神護二年という時期が、画師を大量に必要とした東大寺大仏殿や近江国石山院の造営工事の完了したあとであったという点である。国家的な造営事業を通じて描画・彩色に熟練した画師・画工たちが、新たな任地における荘園の検田・荘図作製のなかで、自らの専門的器量を発揮したと考えられるからである(藤井一二「古代における荘園絵図の描写と画師」『古文書研究』三七)。
 なお、現存する高串荘絵図は道守・糞置荘絵図と異なり紙本であって、筆跡も布製の両図と比べて明らかに異なる。また、その自署部分は数値などの記載者と同筆かとみなされるのだが、その場合には副本の可能性が高いことになる。おそらく、これとは別に布製の絵図が存在したのであろう。
 ところで、足羽郡に所在した糞置荘ならびに坂井郡に所在した高串荘の絵図は、いずれも検定の日付を同じ十月二十一日とする点で、それは国衙の主導性が発揮された結果であることは確かだといえよう。都から来た検田使と国司が計画性を発揮し、その下で郡衙を中心に検田や絵図作製の基礎作業が進んだことと想像される。その場合、検田使の一員であった算師はおもに田数の検査・確認を任務とし、また画師もしくは画才を身に付けた役人がその専門的技量を絵図の作製過程に発揮したものと考えられるのである。



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