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 第六章 若越中世社会の形成
   第二節 北国武士団の形成と領主制
    一 利仁将軍とその伝説
      利仁と敦賀
 加えて芋粥説話では、利仁の舅は敦賀の豪族で家も敦賀にあったとされていた。敦賀は日本海に開けた対外交流の窓口で、古くから渤海との関係があり、『今昔物語集』が書かれた平安後期には、実際に「唐人」(中国の商人)が居住していた(文一六〇・一六四など)。敦賀の豪族であるということは、貿易による富裕の印象が強いばかりでなく、大陸・朝鮮に向かって開かれた武将というイメージをはぐくむ。それがいつしか新羅への外征将軍という話につながったのではなかろうか。
写真107 藤原利仁館伝承地(敦賀市御名)

写真107 藤原利仁館伝承地(敦賀市御名)

 なお、反逆者と国家領域外の民の同一視の構図に鬼神も一枚加わることが多い。鬼神はその存在自体が、天皇を頂点とする国家社会の秩序と安寧に対する脅威=「謀反」だからである。前二者は共通して「人」(臣民)ならぬものと考えられたから、異類(人間以外の動物)にも相通じる。平将門が「外都の鬼王」(『尊卑分脈』)とよばれ、出羽俘囚の反乱が「異類」を率いたと報ぜられて(『貞信公記』天慶二年五月六日条)、利仁の群党鎮圧が「異類誅罰」(「鞍馬蓋寺縁起」)などと称されたゆえんである。後世、利仁将軍が坂上田村麻呂とペアで登場し、陸奥の悪路王を退治する鬼神・夷狄退治の英雄となっていくのは、こうしたゆがんだ観念のあり方に起因する。それとともに、利仁は「海路を飛ぶこと、翅在る人の如し」(『尊卑分脈』脇坂本)と、海を渡る超人のイメージを身にまとうようになっていく。
 さて、利仁の舅の姓は『今昔物語集』では欠字になっている。編纂当時わからなくなっていたので、編者はとりあえず空欄にしておき、あとで補うつもりだったのである。場所が敦賀だったから、郡司をつとめる敦賀(角鹿)氏の一族だったかもしれない。
 利仁が敦賀の豪族の婿になった理由も不明である。ただ『類聚国史』に、天長九年(八三二)六月、荒道山道を作った坂井郡の秦乙麻呂に越前国正税三百束を給すとある(編三八八)。荒道山道とは北陸道の一部、すでに荒廃していたかつての愛発関を通る山道であろう。この関は敦賀郡疋田にあったとみられ、敦賀の松原駅に向かう。乙麻呂は坂井郡を本貫とするとともに、敦賀方面にも影響力を行使する豪族であったと思われる。利仁の母方の祖父にあたる秦豊国も、彼の一族だったかもしれない。利仁の敦賀との縁もそのあたりから生じた可能性がある。



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