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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
     二 越前国荘園の景観と構成
      高串荘絵図の特徴
 前述した道守・糞置荘両絵図の場合が麻布であるのに対して、高串荘絵図は縦五五・八センチメートル、横一一四・〇センチメートルの紙本であり(写真99)、端書に次のように記される。
  越前国坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田
  合地十町<東串方江西岡山 南三国□□成地北榎□□>
   未開四町
   見開田六町
    改正為寺田二町七段二百十六□<乗田六段二百十六歩百姓口分二町一段>      買得田三町二段百四十四歩
写真99 「越前国坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図」

写真99 「越前国坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図」

 ここにみえる高串荘の総地一〇町のうち、開田の占める部分は六町で、絵図によれば西北四条十七串方里と同条十八串方西里に分布する。この開田の内訳をみると、買得の対象となった三町二段余は百姓の墾田であった部分であり、改正の対象となった二町七段余は検定の際、公田(乗田)や百姓口分田とされていた部分にあたる。一方、未開地に相当する四町は、串方西里十三・十四・二十三・二十四坪に分布する部分だが、いずれも「買為寺地」とあるので、第三者の私有地を買得した形跡が明らかになる。東大寺は対象の地が未開(野地)であるにもかかわらず、荘地の拡大のために買得を行ったわけである。ただし、同年の「越前国司解」では、未開状態の買得地についての記載はみられない。  こうして獲得された寺田・寺地の立地条件をみると、東側に串方江が横たわり、西側で岡や山と近接する。その山中には「槻村泉」「榎本泉」とよばれた泉が湧き、その一つ槻村泉の周辺から域内を経由して一本の溝が北方面へ通じている。串方西里内にあった旧百姓墾田・口分田などは、この水利に依存する部分が大きかったことであろう。
 高串荘内における改正・相替・買得の手段を裏付けた東大寺側の論理は、道守・糞置荘の場合と同様であるが、改正の対象になった口分田二町一段の耕作者は隣郡である足羽郡の正丁であったことは、口分田の班給が郡域を超えた範囲で実施された事例として注目される。正丁は、養老令(戸令)では二一歳以上六〇歳までの成年男子をいうが、天平勝宝九歳四月に二二歳からに引き上げられている。
 また、買得の対象になった百姓墾田三町二段一四四歩の内実についてみると、串方江に沿った串方里・串方西里内に口分田と交錯した状態で分布するが、同地に関する所有権の移動について、天平神護二年の「越前国司解」は次のように説明する。この買得地は、もと坂井郡荒墓郷戸主高橋連安床の戸口同縄麻呂の墾田であったが、天平勝宝九歳三月二十日に左京六条二坊の戸主で従七位上間人宿鵜養の戸口正八位下同鷹養に売却された。その後、七年経た天平宝字八年二月九日に間人鷹養から東大寺が買得した。ところが図・田籍帳には誤って元の高橋縄麻呂の名が付けられることとなった。それが、道鏡政権下の天平神護二年に至って寺田に改正し終えた、というのである。したがって、この場合の改正は、天平神護二年の時期における東大寺による買得行為ではなく、過去の天平宝字八年段階における買得の事実を明らかにし確認したものであった。同国司解の巻頭にあたる坂井郡総記部分に「買三町二段一四四歩」の注記として「前買今改付寺名」とあるのは、過去におけるこうした経緯を物語るものといえよう。
 また、天平神護二年の絵図では高串荘内に「未開四町」があり、この部分は串方西里十三・十四・二十三・二十四坪に分布する。いずれも東大寺の買得地とされ、これらの地は買得以後、百姓の墾田や口分田に登録されることはなかったとみられる。絵図に「未開」とされるのは、天平神護二年時における野地の状態を示すものであって、かならずしも買得前からの開墾状況を伝えるものとは限らないであろう。
 さて、高串荘の成立は、天平宝字八年に東大寺が左京人から坂井郡の土地を買得した件にさかのぼることを述べたが、次に、その成立当初の様相についてふれておこう。
 天平宝字八年二月九日付「越前国公験」(寺三二)によれば、海郷の九町三段一四四歩(見開七町二段一四四歩、未開二町一段)と家一区(草屋二間)、地一町が銭三三貫で東大寺に売買された。いま、そこに列記された対象地を整理してみると、西北三条十八及田里七・十八・十九・二十・二十九坪、同四条十八串方里五・六・七・八・九・十・十一・十二・十三・十四・二十四坪に分布したことがわかる。
 ここにみえる条里名のうち、及田里・串方里は天平神護二年の絵図では反田里・串方西里と記される部分に相当するが、田地の分布状況を比較すると両者の間にずれのあることが明らかとなる。それは、天平宝字八年時における串方里の五・八・九・十・十一・十二坪や及田里の七・十八・十九・二十・二十九坪にあった買得地が、天平神護二年の絵図では荘域内に含まれていない点にあろう。この二年余の間における両者の異同をどのように理解すればよいのか、という問題が生じることになる。それについて、第四章第四節では条里プランの不明確さや行政手続き上の混乱から説明しているが、ここでは別の解釈を試みてみたい。
 それは、高串荘の東側で接する串方江との関係についてである。「江」について『和名類聚抄』(十巻本)には「唐韻」(唐、孫撰)を引いて「江海也」とみえ、また越中国の「比美乃江」「奈呉乃江」(『万葉集』一七―四〇一一・四〇一八)や摂津国の「難波堀江」(『日本書紀』欽明天皇十三年十月条など)などによって、海や河口に近接する位置にあった状況をうかがうことができる。串方江の場合は、一つの解釈として、絵図中の北東方向にあたる九頭竜川下流の左岸・河口辺から、南の内陸部に向けて水流が蛇行しながら湖状に入り込んでいたと推測されるのだが、その点は、絵図中の串方江を幅広く大きく描いている様子とも符合するとみられ、とくに興味がもたれる。この入り江状の地形や水量の変化は、その西側や南側で接する東大寺田にも影響を与えたに違いないからである。事実、天平宝字八年に東大寺が買得した墾田のうち、串方里の五・八・九・十・十一・十二坪と及田里の七坪の部分は、天平神護二年の絵図では串方江の水底に位置しているのである。串方江は、絵図に魚の絵が描かれているのを見ても、入り江での漁獲などを通じて重要な意味をもったであろうが、同時に入江の水流に面する田地はしばしば浸水に遭遇したことと思う。高串荘の南部にあたる及田里の十八・十九・二十・二十九坪には天平宝字八年時に寺田が分布したが、天平神護二年時には荘域外とされ、絵図の四至(南至)では三国某氏の私有地となっているのも、こうした串方江周辺地における形状の変容と無関係ではないと思われる。  一方、高串荘の荘所については、天平宝字八年二月の「越前国公験」(寺三二のなかに「家壱区<草屋二間> 地壱町」と記される家地に該当する。ところが、この部分は右文書中に列記された坪付にはみえず、天平神護二年の絵図でも同様であるところから、荘域外に配置されていたと考えてよかろう。荘所の置かれた場所と現地の村落や経営担当者の居住地とが密接な関係にあったとすれば、絵図では域外の南西に「榎本泉」、西に「槻村泉」、北に「榎津社」が知られるので、神社のある北側か泉の所在する西側に、「家壱区」の位置した可能性が大きいように思われる。とくに榎津社の背景には、その祭祀を中心とする共同体的な集落の存在したことが推定されるのである。



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