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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
     二 越前国荘園の景観と構成
      糞置荘絵図の特徴
 糞置荘についての絵図には、天平宝字三年十二月三日付と、天平神護二年十月二十一日付の二枚が現存し(写真96・97)、開発の様子や耕地の状況を知るうえで貴重な資料となっている。
 まず、糞置荘の立地条件を両絵図によってみると、足羽郡の西南七条五琴絃里・六琴絃西里、同八条五動谷里・六大谷里にかけて展開し、荘の東側に動谷山、西側に佐々尾山、南側に保々岡・大谷岡、中央部に岡・山が位置する。東・南・西の山・岡に囲まれた荘地は、野地を含めて一五町余の総田積から始まる。天平宝字三年時の状況を、絵図の端書部では「糞置村地十五町一□□□四十四歩」「開田二町五段三百十六歩、未開十二町五段二百八十八歩」と記すので、その開発の様子に目を向けてみよう。
写真96 「越前国足羽郡糞置村開田地図」(天平宝字3年)

写真96 「越前国足羽郡糞置村開田地図」(天平宝字3年)


写真97 「越前国足羽郡糞置村開田地図」(天平神護2年)

写真97 「越前国足羽郡糞置村開田地図」(天平神護2年)

 糞置荘の成立は、天平勝宝元年四月一日詔書(寺院墾田地許可令)にもとづいて野地を占定したのに始まるが、以来一〇年、荘地全体の一七パーセントにあたる約二町六段が開墾されたことになる。絵図によれば、この開田は動谷里内の動谷山・欟原岡・保々岡に沿っての三段一四四歩と、大谷里・琴絃西里を中心とする佐々尾岡・大谷岡沿いに二町二段一七二歩が分布する。開田部の特徴といえば、佐々尾岡の麓に沿って沼状の「溝」(薄茶色)とみられる複線での表示があり(荘中央を南北に通じる「山道」の場合は、朱色の単線で示されている)、山麓に沿って開発の進んだ様子がうかがえよう。たとえば、山沿いの動谷里十一坪冬岐田の開田五段は「百姓本開」と特記され、寺田積に含まれない部分であるが、糞置荘の成立前から、水利に恵まれた山麓の現地で百姓による私有地獲得と開墾が実現していたことを裏付けるものである。
写真98 糞置荘比定地付近

写真98 糞置荘比定地付近

 これに対し、未開地の部分は荘中央の岡・山を基準にして東側一帯に七町八段、西側一帯に四町七段二八八歩が残る。これらの未開の部分に、その後、どのような開墾の手が加わったのであろうか。  天平神護二年の絵図によれば、端書部に当時の荘地内容を次のように記している。
 越前国足羽郡糞置村東大寺田
 合地十五町八段二百六十八歩<東南西山北大市広田野>
  未開十一町六段二百五十七歩  
  見開田四町二段十□歩
    寺田四段二百十六歩
    改正得田二町□□□
    相替得田四段<百姓□□>
    買得田五段<百姓墾田>
 これを天平宝字三年の場合に比べると、総地で七段余、開田で一町六段余が増え、未開田で九段余が減ったことになる。この時期における開田の内訳に「寺田」「改正」「相替」「買得」の手段と田積を記すのは、天平宝字三年の絵図にはみられなかったもので、荘地に生じた複雑な所有関係と東大寺側による領地一円化の方法を伝えている。それを大まかに述べれば、荘地内に存在した口分田を改正し、百姓墾田を買収し、荘境に隣接する百姓の墾田・口分田は域外の寺田と交換した結果を明らかにしたものであった。では、なぜこうした種々の編成作業が必要であったかについて、もう少し説明を加えておこう。
 開田のうち「寺田」とされるのは、立荘以来、寺田として維持されてきた部分を指し、「改正」の対象となった二町八段一五五歩も、本来、寺田とみなされた部分に相当する。それは、天平宝字四年の校田使による検田・公田登録にもとづき、班田年である同五年に百姓にたいし「口分田」として班給した部分であることを示している(寺四四)。天平宝字四・五年といえば、政権は大師藤原朝臣仲麻呂が掌握し、越前国守には仲麻呂の子である藤原朝臣薩雄が在任した時期であり、時の校田使や国司の動きは仲麻呂政権の寺院政策と無関係ではなかったはずである。
 「相替」(換地)の対象となった地四段は、北側の琴絃里四坪で荘地と隣接する部分だが、天平宝字三年の絵図では荘域外に位置し、百姓の墾田一段・口分田三段からなる。この代替地は同里内の二か所(二十二坪・三十六坪)に分けて設けられたが、東大寺側は荘地を拡張するため別地に百姓への代替地を準備したものと考えられる。
 「買得」田となった五段についてみると、動谷里十一坪に分布し、天平宝字三年の絵図に「冬岐田五段百姓本開」とされた部分にあたる。この地の内情を天平神護二年十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)には「葦原田五段<伊濃郷戸主佐味智麻呂戸同浄虫女墾、買為寺田>直稲一百二十束」と記している。
 これによって、当地は元来、伊濃郷戸主佐味智麻呂の一族によって開墾された私有地であったのが、天平神護二年に東大寺が一段あたりの価格として稲二四束で買収したことがわかる。ここに登場する伊濃郷の佐味氏の動向については、右の墾田に隣接する動谷里一・二坪に佐味広足の口分田計六段が置かれていた件が注目されてよい。口分田を班給する際に、同郷の氏族が進出し所有していた墾田地の近辺を選んだことが考えられ、その場合には、農民の耕地の管理・経営面に対しても現実的な配慮がなされたことと思われる。



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