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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
     二 越前国荘園の景観と構成
      道守荘所と百姓家
 道守荘絵図の西南隅、西北一条十二道守里十一坪に倉屋らしい建物施設が描かれ、傍らに「東大寺道守荘」と注記されている。この箇所が荘園の管理・経営機関に相当し、ほかの絵図や文書などには、「三宅(三宅所)」「荘家」「荘」「寺家荘」などの呼称で現われる。このうち、荘家・荘で知られるものとして、天平二十年(七四八)二月十一日付「弘福寺三綱牒」(『大日本古文書』三)のなかの「荘家一処(倉五・屋二)」、天平十九年二月十一日付「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(『大日本古文書』二)のなかの「荘十六処、荘荘倉合二六口、屋四四口」などがあり、建物群の所在を示している。これに対して、「家一区」「荘所」「三宅所」の場合には、建物のほかに「地」を含むとみられる。坂井郡にあった東大寺領高串荘についての天平宝字八年(七六四)二月九日付「越前国公験」(寺三二)では「家壱区<草屋二間> 地壱町」として表示されるのは、その一例である。このようにみると、荘家は倉屋を中心にした表示となり、荘所は荘家を軸に園地・林などの地的空間をも包摂するものといえよう。
写真95 「越前国足羽郡道守村開田地図」

写真95 「越前国足羽郡道守村開田地図」

 さて、道守荘の場合、一坪の内に六つの建物が図示される(写真95)。宮内庁正倉院事務所撮影のカラー写真版でみると朱彩が施されており、重要施設としての認識を反映させたものであろう。その建物は上・下の二列からなり、上列には間口三間の建物三宇(高床状のものを含む)、下列には間口四間の建物二宇と左方部が欠損し三間分が認められる一宇が描かれている。
 この間口三間・四間の区別は、同荘の域外北東隅に描かれる旧田辺来女(右京人従七位上上毛野公奥麻呂の戸口)の所有した屋舎が間口三間と四間を区別したのと同様に、「屋」と「倉」を区別して描写したのではないかと推測させる。道守荘所の周辺には、西側を味間川(日野川)、東側を「寺溝」がいずれも南北に走り、河川を利用しての輸送・交通が便利であった様子を物語っている。また荘所の東側には「丸部孫麿家」や「百姓家」が所在するのだが、この荘所や百姓家のある道守里ならびに上味岡里は、開田地の多い地帯でもあり、荘所が経営拠点として枢要な位置を占めていたことを示しているのである。
 なお、道守荘には天平神護二年以後、東大寺側の荘所にあらたに組み込まれた荘所があった。道守荘絵図の東北隅に描かれる田辺来女の所有した倉・屋が、それに該当する。絵図によると、道守荘の東側にあたる西北二条十宮処新里ならびに東側の同条九某里、三条九直尾里、四条九綾部里・十垂水里に、中央部の山(黒前山)を挟み南側の四〇か所の坪に田辺来女の墾田、北側の二〇か所の坪に野地が展開する。絵図には欠損部もあり確かな田積を算出できないけれども、翌年二月十一日付「東大寺諸荘文書案」(寺四九)には、「合地四十六町九段三百三十歩、未開十三町七段二百二歩、見開三十三町二段一百二十八歩」と記される。
 ここに知られる数値は、前年十月における道守荘絵図の作製時にあっても、ほとんど大きな差異はみられなかったであろう。その場合、「未開」部は絵図中の野地に、「見開」部は墾田に該当することになる。田辺来女の墾田所有の政治的背景については、戸主である従七位上上毛野公奥麻呂と、藤原仲麻呂政権の下で造東大寺司判官の職にあって、天平宝字三年十二月に越前国へ検田使の一員として下向した従五位下上毛野公真人とが同族であり、緊密な関係をもっていたことに、もとづくのではないかと考えられる。
 やがて、同地とそれに付設されていた倉屋は、一括して東大寺領に編成された。天平神護三年二月六日付「太政官符案」(寺四八)のひく水田帳目録に「足羽郡田辺来女没官墾田并荘為寺田荘所」とみえ、来女の墾田が東大寺田に、荘=屋舎が東大寺の荘所に変更された事情を明らかにしている。それは、前掲の「越前国司解」のなかにも荘域内にあった田辺来女墾田の没官を「依有罪人支党」の理由とするように、天平宝字八年九月に起きた藤原仲麻呂の乱に連座しての結果と考えられるのである。
 こうして、東大寺は道守荘の西南隅、味間川近辺の荘所に加えて、東北隅の生江川近辺にも荘所を構えることとなった。それは、道鏡政権下における天平神護二年を画期とし、道守荘の失地回復を図るとともに、新規に周辺地を併合したことにより、経営と貯穀の機能を強化させる必要に迫られたからである。ちなみに、平安時代の天暦四年(九五〇)十一月の「東大寺封戸荘園并寺用雑物目録」(寺六一)に「道守荘田三二六町二段五五歩」の総田積が知られるのだが、これは、以上にみた旧田辺来女の没官墾田を含めた道守荘の田積全体の規模を伝えるものといえよう。
 また、道守荘絵図は、荘境周辺の隣接地の様子を詳しく記載している点でも興味がもたれる。その事例が、荘域の北側や南側に記された「百姓家」と「百姓畠」などの分布状況についてである。まず、北側の垂水里・弥江里の内の一八か所に記される「百姓家」をみると、一定の地域に集中した感じで連続した広がりを示している。この百姓家群が傍らに「百姓畠」(坪付七か所)を伴って道守荘に接しているのは、道守荘の野地開墾や耕地経営に必要な労働力の配置を考えるうえで興味深いものがある。
 これと同様の関係は、南西隅に記される「丸部孫麿家」「百姓家」と、その近くの味間川沿いに分布する坪付一〇か所にわたる「百姓畠」についてもいえる。それは、北西部生江川と味間川の合流地点一帯に分布する「生江浄成畠」「生江豊浜畠」「生江広浜畠」「生江息嶋(畠)」「道守床足(畠)」「足羽年足(畠)」といった、郡内有力農民の私有地とともに注目されるのである。以上のことから、絵図に名前を特記された丸部孫麿が道守荘や荘所の経営に関係した可能性が考えられるとともに、荘域に隣接して分布する畠も荘園の開発や経営にさまざまな形で参画した百姓らの生活に結びつくと理解するのが自然かと思われる。とくに、これらの畠地が個別に各家の周辺地ではなく、集落外の一か所ないし数か所に一括して分布している様相は特筆されてよい。そこに、東大寺・造東大寺司の意図をうけた地方の国司・郡司による行政的な差配が加わったことを推定できるからである。



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