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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
     二 越前国荘園の景観と構成
      道守荘絵図の特徴
 天平神護二年(七六六)十月二十一日(推定)の日付をもつ道守荘絵図は、縦一四四センチメートル、横一九四センチメートルの麻布に描かれ、現存する絵図のなかでは最大の規模をもつ。この絵図の重要な点は、荘域内外の耕地形態や土地所有状況をはじめ、河川・潅漑用水・荘所・集落・道・山など現地の詳しいデータが盛り込まれていることにある。これによって、道守荘の立地条件・景観・寺領編成・耕作・経営方法などを考えるうえで、有益な素材を提供しているといえるのである。  同絵図をみると、道守荘は西の味間川、北の生江川、南の寺溝、東の山やまに囲まれ、おもに荘域内の北部に野地、南部に耕地が分布しており、開田地の南北には数本の溝が縦横に走る。そのうち耕地の部分に目を向けると、天平神護二年の段階に東大寺が編成作業を実施した際、個々の耕地の所有状況が一律ではなかった点が注意される。  そこで、同荘の全体像を知るため端書部の総記項目について、一部欠損部を復元して挙げよう。
 [越前国足羽郡道守村東大寺田]
 [合地         ]
  [未開        ]
  [見開田       ]三歩
  [寺田       ]九歩
  [改正十四町八段百八]十六歩
    百姓口分田六段二百三[十歩]
    百姓墾田二町三段[十一歩]
    没官田十一[町八段三百五歩]
    相替為寺田[二町三段二百五十八歩]
    買得田十町[一段三百四十六歩]
    足羽郡大領[正]六位[上生江臣東人所進墾田七町一段三百五十四歩]
 この記載によると、道守荘の総面積、未開・開田・寺田などの田積は明らかでないが、開田の内訳として「寺田」のほかに「改正」「相替」「買得」田が知られ、さらに「改正」の内訳として百姓の口分田・墾田や没官田のあったことを記している。実は、この土地獲得の対象と手段を確認・明記した点に、同絵図を作製したねらいがあったと考えられる。
 ところで、道守荘の成立と構成についてみておけば、天平勝宝元年(七四九)に東大寺の野占寺使(法師平栄ら)によって占定された野地と、天平勝宝末年ごろに足羽郡の豪族で造東大寺司史生を経て足羽郡大領となる生江臣東人が寄進した墾田一〇〇町からなると推定できよう。天平神護二年の同絵図をもとにして各条・里の寺地の内訳を整理してみると、表43のとおりとなる。

表43 道守荘条・里別の田積

表43 道守荘条・里別の田積
 絵図では、本来の寺田として野地と墾田の部分が、また改正・相替・買得などの手段で寺領に組み込まれた百姓の墾田・口分田が表記されている。それによって各田積を計算すれば、確認できる寺地は、野地一三七町四段、墾田八〇町七段二九四歩の二一八町一段二九四歩となる。このうち野地は、西北五条十二某西里・十三川合里・十四江里、同四条十垂水里・十一弥江里・十二弥江西里・十三古川里、同三条十直尾西里・十一野田里などに集中して連続面を構成し、墾田は、西北一条十寒江里・十一上味岡里・十二道守里、同二条十宮処新里・十一宮処西新里などに集中して分布する。これによって、野地は主に荘域の北部一帯に、墾田は南部一帯に広がっていた様子が知られる。
 はじめに、絵図のなかの水利条件をみると、南部地域には数本もの「寺溝」が南側から北に向けて流れ、それらは途中で合流し北部の野地部を通過して域外や生江川へと通じている。したがって南部の墾田地帯は、この溝の流域を中心に分布することとなり、田地の開墾と経営が用水の造成・整備に深く結びついていた実情を物語っている。荘園の耕地が広ければ広いほど、溝は引水と排水に重要な役割を果たしたはずである。
図93 道守荘形成期の土地形態と編成手段の概念図

図93 道守荘形成期の土地形態と編成手段の概念図

 次に、道守荘の域内に位置し、天平神護二年時に東大寺領へ編入された「百姓口分田」「百姓墾田」に目を向けよう。ここで対象となる口分田や墾田は、荘域南部の寺田地帯の内に散在し、東大寺が買得・相替・改正などの手段で一円化を図った部分である。絵図の中央部は坪付約八〇か所が欠損しているが、同日付の「越前国司解」(寺四四)によって補えば、改正田は西北一条十寒江里・十一上味岡里・十二道守里、同二条十宮処新里・十一宮処西新里、同三条九直尾里・十直尾西里・十一野田里・十二野田西里、同四条十垂水里に、相替田は上記の寒江里・直尾里・直尾西里に、買得田は寒江里・上味岡里・直尾西里に分布したことになろう。このうち、とりわけ西北一条の寒江里と上味岡里に「口分田」「墾田」が多く分布するのは、この一帯が潅漑用水である「寺溝」の流域に相当し、しかも域外と近接・隣接しているため耕地の経営にあたる百姓にとって至便であったからにちがいない。
 荘園の田積を考えるうえでそれぞれの田積についてみると、改正田は一四町八段一八六歩、相替田は二町三段二五八歩、買得田は一〇町一段三四六歩で、足羽郡大領生江東人の寄進田七町一段三五四歩を加えると三四町六段六四歩となる。これに天平神護二年以前からの寺田として確認できる二一八町一段二九四歩を加えれば、二五二町七段三五八歩に及ぶことになる。さらに、絵図中の欠損部約八〇か所以上分の田積を考慮に入れると、総地が三〇〇町を上回ることは確実とみてよかろう。



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