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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    一 絵図の作製と背景
      天平神護三年の絵図
 荘園目録にみえる越前関係の絵図のなかに、天平神護三年作製のものとして国富荘絵図の存在したことが知られる。現存しない絵図に関する貴重な記事といえる。
国富荘
  一帖布 神護三年
  一帖紙 同年(以上、仁平三年目録)
 これは、坂井郡の「鯖田国富荘」について、天平神護三年(八月に改元して神護景雲元年)に布・紙二種の絵図が作製されたことを伝えるものである。天平神護三年という年は、前年に引き続いて、法王道鏡が左大臣藤原永手・右大臣吉備真備を重用し、一貫して仏教重視の政治を推進した時期にあたる。実は改元後の十一月十六日付で、越中国諸郡の東大寺領荘園(砺波郡石粟・伊加留伎・井山・杵名蛭、射水郡須加・鳴戸・鹿田、新川郡大薮各荘)の絵図を作製しているのだが、これは越前における鯖田国富荘の絵図作製を終えたのち、越中へ移動しての作業であったとみてよい。
写真94 「越前国坂井郡鯖田国富庄券」裏書(社24)

写真94 「越前国坂井郡鯖田国富庄券」裏書(社24)

 「鯖田国富荘」は、天平勝宝九歳(八月に改元して天平宝字元年)四月、坂井郡大領の品治(遅)部君(公)広耳が東大寺に寄進した墾田一〇〇町に始まる(寺一二)。寄進当時における同荘の分布については、坂井郡東北二・三・四条、西南一・二・三・四・六条、西北一・二・三・五・六・七・十・十一・十二条などにわたり、広く分散した状態にあった(寺七)。これに関して、京都大学文学部国史学研究室所蔵文書の「越前国坂井郡鯖田国富庄券」裏書(写真94)によると、「佐波田国富二庄文惣」について天平宝字三年十一月二十八日付「越前国坂井郡東大寺墾田図」の存在したことを記している。今日、鯖田国富荘の天平宝字三年絵図は伝わらないが、もし同墾田図が作製されていたとすれば、立荘当時の分布状況を把握したものであったろう。  しかし、同荘の墾田が散在状態にあることから、東大寺側の管理や経営を不便なものとしたため、九年後の天平神護二年十月、寺田と百姓の口分田・墾田との相換によって一円的領有を図った。その結果、墾田は東南六条一里と西南四条一・二里、五条一・二里の一帯に集中することとなった。それゆえ、天平神護三年の同荘絵図は、鯖田国富荘として一円的支配の完了した段階を確認した絵図であったと考えられるのである。



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