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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    一 絵図の作製と背景
      天平神護二年の絵図
 現存する越前荘園の絵図には、天平神護二年十月二十一日の作製日付をもつものとして糞置荘(布)・道守荘(布、年次部欠損)・高串荘(紙)があるが、荘園目録に現われる関係絵図を列記してみると、次のとおりとなる。
糞置荘
  一帖紙 天平神護二年(仁平三年目録)
  (布)足羽郡糞置村 四至<東南西山北大市広田野> 載地十五町二段百六十八歩(大治五年目録)
道守荘
  一帖布 天平神護二年
  一帖紙 同年(以上、仁平三年目録)
高串荘
  一帖布 天平神護二年
  一帖紙 同年(以上、仁平三年目録)
  布紙 坂井郡高串村大修多羅供分田地十町 四至(略)(大治五年目録)
椿原荘
  二帖紙 天平神護二年
  二帖布 天平神護二年(以上、仁平三年目録)
幡生荘
  三帖布紙 天平神護二年絵図<出寛平録>(目脱カ)(仁平三年目録)
  布紙 同所 同四至 田数間少分相違、前異之(大治五年目録)
 以上の目録から、かつて少なくとも糞置・道守・高串・椿原・幡生荘などの絵図が存在したことを知りえよう。それらのなかには現存する絵図に該当するものも含まれており、作製日付はいずれも「天平神護二年十月二十一日」であったとみられる。各絵図に「布」「紙」とあるのは、正本・副本(控)の二種類があったものと思われる。  ところで、天平神護二年十月二十一日付の越前国関係絵図は、同日付の文書「越前国司解」と照応し、末尾の署名はいずれも国司と検田使(東大寺僧・造東大寺司官人)とによっている。また、時の国司には、守藤原朝臣継縄、介多治比真人長野のほか、員外介に弓削宿牛養の登場が知られる。国守藤原継縄は、天平宝字元年の橘奈良麻呂の変に連座して左遷された藤原豊成(仲麻呂の兄)の子で、天平宝字八年九月の藤原仲麻呂の乱後、仲麻呂の子辛加知の後任として着任しており、弓削牛養は時の太政大臣僧道鏡の一族であった。
 この天平神護二年というのは、称徳天皇のもとで太政大臣禅師として実権を握った僧道鏡が法王の位に就いた年にあたり、前年に西大寺を造るなど寺院優遇の政策が打ち出された。したがって、この時期における越前荘園の検定には、道鏡政権の政治的立場が優位性をもち、検田使として派遣された少寺主僧承天・少都維那僧慚教・知田事僧勝位らの意向がつよく反映していたわけである。彼らが造東大寺司の判官美努連奥麿や算師凡直判麿とともに越前で寺領回復活動を展開した時期は、その動向からみて同年の七月から十月にかけての期間中に相当するものと推定される。「越前国司解」に引用される八月二十六日付「太政官符」は、越前国司に発令されたものであるが、そのなかに「田使僧勝緯等状」がみえており、田使が八月に現地に滞在した様子を伝えている。  これに対し、絵図と同じ日付をもつ「越前国司解」では、丹生郡椿原荘、足羽郡糞置・栗川・道守・鴫野荘、坂井郡田宮・子見・串方(高串)荘などに対する検田の結果を改正・相替(換地)・買得(買収)など一円化の手段別に整理している。そこでは絵図目録のなかにみえない「栗川」「鴫野」「田宮」「子見」などの荘園も対象となっているので、本来は、それらの絵図も作製されていたとみなすべきではないかと思う。現存する絵図には、総地・四至・未開・開墾状況とともに、各坪には開田の内訳(改正・相替・買得田)を詳記して、絵図作製の意図を明らかにしており、国司解と一対の関係にあったことがうかがえるのである。



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