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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    一 絵図の作製と背景
      天平宝字五年の絵図
 今日、正倉院などに伝わる荘園絵図のなかに、天平宝字五年の作製年次をもつものはみられない。事実、同年に東大寺や国司が国内で統一的に荘園の検注を実施した形跡は、記録のうえでも確かめることはできないのである。しかし、「仁平三年目録」中の「椿原荘」の項に、「一帖布 天平宝字五年」の記載がみられる点は注目してよいと思われる。
 これは、越前荘園のうち少なくとも椿原荘について、天平宝字五年の段階に絵図が作製されたことを物語る。この場合、天平宝字五年という年が班田の実施年である点において、とくに注意されてよい。天平神護二年十月二十一日付「越前国司解」によると、天平宝字四年に越前に派遣された校田使石上奥継は、国司(守藤原薩雄・介阿倍広人)とともに「寺家所開」地を調べ、それにもとづいて翌五年には口分田の班給が行われた。その際、椿原荘地に関して問題となったのは、次に述べる経緯があったからである。@以前、天平三年(七三一)に国司から丹生郡岡本郷戸主の佐味入麻呂らに与えられた土地が、A天平勝宝元年閏五月、国司・寺使により東大寺田地として占定された。そのため、B入麻呂らの訴えにより天平宝字二年八月、再び時の国司から入麻呂らに与えられた。C同三年、造東大寺司の申立てで入麻呂が東大寺の要した開発料稲を納めることにしたが、未進のまま越前国分寺に売却され、その結果が、D同五年の田図に記載された、という。これによれば、天平宝字五年の班田時に作製された田図は、おそらく都からの校田使や国司側の主導にもとづいていたと思われる。この時期、恵美押勝(藤原仲麻呂)が大師(太政大臣の唐風官名)として権勢を振るい、越前国守の藤原薩雄は彼の子であったから、その校田結果は、かならずしも東大寺側の立場に与するものではなかったであろう。
 さて、天平宝字五年に作製された布製の椿原荘絵図は、当然、国司側の作製した班田図を基礎にしたと考えてよいが、この絵図に関して「大治五年目録」と「仁平三年目録」の該当部を対比してみたい。
大治五年目録
 A布紙椿原村<丹生郡>田地五十町<之内>国分金光明寺田七町二段二百六十歩
 B布 丹生郡椿原村地三十五町九段五十二歩 四至(略)
仁平三年目録
 C一帖布 天平宝字五年
 D二帖紙 天平神護二年
 E二帖布 天平神護二年
 右のうち、大治五年目録中には年次を記さないが、Aの場合、布と紙の二種類の絵図があったことになり、仁平三年目録においてはD・Eの天平神護二年の絵図に該当しよう。また、Bの絵図は布製の一種類であって、これは仁平三年目録中のC、つまり天平宝字五年の絵図に相当する可能性が高いのである。このように理解すると、天平宝字五年における椿原荘の田積規模が明らかとなる。その数値三五町九段余は、Aの天平神護二年や天暦四年(九五〇)時の五〇町(寺六一)に比べて少ないわけだが、これは天平宝字四・五年の校田使・国司らによる「寺田割取」の結果が反映しているとみるべきであろう。



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