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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    一 絵図の作製と背景
      天平宝字三年の絵図
 天平宝字三年に作製された絵図は、越前国では糞置荘以外に現存していない。しかしながら、目録の記載から次の三点の存在を知ることができる。
越前国江沼郡幡生荘
  (布)江沼郡幡生村 四至(略)
      地五十町五段六十四歩 天平宝字三年十二月三日(大治五年目録)
越前国坂井郡小榛荘
  一帖紙 宝字三年(仁平三年目録)
  紙 坂井郡小椿村地三十九町四段百二十歩(大治五年目録)
 右のうち、幡生荘の地は現在、石川県に属するが、当時の検注日付は現存する足羽郡糞置荘絵図と同じ十二月三日であるので、小榛荘絵図の場合も同日かそれに近い日付が推定される。なお、小榛荘絵図については、仁平三年目録に「一帖紙 宝字三年」とあるが、それは大治五年目録にみえる「紙坂井郡小椿村地三十九町四段百二十歩」の記載に符合すると思われ、三九町四段余の数値は、天平宝字三年時の田積を示すものであろう。
 右の絵図作製については、これより先、十一月十四日付で越中国砺波郡(伊加流伎・石粟荘)・射水郡(田・須加・鳴戸・鹿田荘)・新川郡(大荊・丈部荘)の絵図が作製されており、検田使の一行はその後に越前国へ向かったものであった。当時、越前国内の東大寺荘園には、天平勝宝元年(七四九)四月一日詔書にもとづいて占定された荘園(寺四四)として、糞置・栗川・鴫野・道守(一部)・田宮・子見・椿原荘などが推察されるので、あるいは目録などに現われる以外の荘園絵図が作製された可能性も捨て切れないことになる。
 では、越前における絵図を作製するうえで、なぜ、天平宝字三年が重要な年であったのか。この時期の政治情勢に目を向けると、都では淳仁天皇のもとで藤原仲麻呂が大保として実権を握り、東大寺領政策を主導した造東大寺司の長官に坂上犬養、次官に高麗大山をあてているが、これらは仲麻呂体制下における人事にほかなるまい。そして、同年の越前荘園の検田には、造東大寺司の官人として算師小橋君石正・判官上毛野公真人、東大寺の僧侶として知墾田地道僧承天・都維那僧仙主・佐官法師平栄らがあたった。彼ら検田使は、初め越中国へ向かい十一月十四日付で関係絵図に署名したあと、越前国に移動し十二月三日付で糞置荘などの絵図に署名したのであるが、この間の日数は移動期間を含めて二〇日余と少ないことから、検田作業は、多分に越前の国衙・郡衙の実務的役割に依存する面が大きかったものと考えられる。
 検田使一行の主な目的については、越中では占定野地の開発状況を調べることにあったが、越前の場合には、存在した荘園すべてに関して絵図が作製されたかどうかは疑わしく、むしろ個別の荘園を中心に絵図や文書の作られた可能性に目を向けるべきかもしれない。というのは、天平宝字三年ごろの越前では、天平勝宝元年以来の占定野地の開発が停滞しており、東大寺側の主な経営対象は買得(買収)地(桑原荘)や、豪族の寄進地(鯖田国富荘・道守荘一部)におかれたとみられるからである。



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