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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第三節 荘園絵図とその歴史的世界
    一 絵図の作製と背景
      荘園絵図の伝存
 福井の古代荘園を彩る資料として注目されるものに、正倉院を中心に伝わる荘園絵図がある。当時の絵図は「開田地図」「墾田地図」「田図」「絵図」などとよばれ、今日、東大寺関係を中心にして二〇数点が現存している。その主な対象地は、越前・越中・近江・摂津・阿波などに及んでおり、このうち越前国関係分を挙げれば、以下のとおりである。
 足羽郡糞置村開田地図(天平宝字三年十二月三日)正倉院蔵(寺二五)
 足羽郡糞置村開田地図(天平神護二年十月二十一日)正倉院蔵(寺四六、『資料編』一六上)
 足羽郡道守村開田地図(天平神護二年十月二十一日)正倉院蔵(寺四五、『資料編』一六上)
 坂井郡高串村東大寺大修多羅供分田地図(天平神護二年十月二十一日)奈良国立博物館蔵(寺四七)
 これらの絵図では、麻布や紙を素材とし、各荘園の総面積、開墾・未開面積、四至(東西南北)や荘域内外の土地形態・景観ならびに検注者名が記載されるため、八・九世紀を中心とする初期荘園の実態を明らかにするうえで、有効なデータを提供するものといえる。  ところで、ここに挙げた現存する絵図は、かつて東大寺が荘園の管理・経営にあたった段階に作製した絵図の全体を意味するものではない。そこで、当時の「荘園目録」などのうち、大治五年(一一三〇)三月十三日付「東大寺諸荘文書并絵図等目録」(寺六四)と仁平三年(一一五三)四月二十九日付「東大寺諸荘園文書目録」(寺六六)のなかから越前関係の絵図を抽出し、作製年次別に整理すれば、表42のとおりとなる。

表42 越前国東大寺領荘園の絵図

表42 越前国東大寺領荘園の絵図
 それによると、現存していて目録中に確認できる絵図と、現存しないがかつて作製され各目録の記載段階に存在したことの確かな絵図とを知ることができる。
 内容は、天平宝字三年(七五九)の作製として、糞置荘のほかに、小榛荘(坂井郡)・幡生荘(江沼郡)の絵図、天平宝字五年のものに椿原荘(丹生郡)の絵図、天平神護二年(七六六)のものに糞置荘・道守荘・高串荘に加えて、幡生荘・椿原荘の絵図、さらに天平神護三年(神護景雲元年、七六七)のものとして国富荘(坂井郡)の絵図が実在したことを伝えているのである。したがって、今日残存しない小榛荘・幡生荘・椿原荘・国富荘の絵図に加えて、それ以外にも散失した絵図はありえたとみてよいことになろう。  ここでは、絵図と荘園の管理・経営との関係を考慮して、現存する絵図の作製事情や背景について考えてみることにしたい。



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