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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    二 交易・交通
      郡衙機構の輸送関与
 ここでその船について考える時、天平宝字三年五月「越前国足羽郡書生鳥部連豊名解」(寺二二)が参考になる。これは足羽郡の下級官人である書生の鳥部連豊名が都の安都雄足に対し、雄足の越前の宅に蓄積されている去年の米を、梶取生江民麻呂に付けて進上することを報告しているものである。安都雄足が造東大寺司に帰任後も越前の宅をもち続け、私稲を運用していたことを物語る史料である。
 ここでは郡衙という地方行政機関が米の輸送に、それも梶取に付していることからわかるように、船による輸送に関与していたことが注目される。当時足羽郡の大領は生江臣東人であった。梶取の生江民麻呂もその一族につながる者であろう。彼が利用した船が郡衙に属する官船であるのか、それとも私船であるのかは不明だが、もし後者とすれば、それを所有できる資力を考えると生江臣氏の船である可能性が大きいであろう。そしていずれにしろ、安都雄足との関係を考慮すると、この米輸送の背後には大領生江東人の意向が働いていたのではなかろうか。
 当時船は高価なものであり、それを所有できる者は限られていたこと、さらに足羽郡大領生江東人の存在を考慮すれば、同郡にあった東大寺領荘園の稲の輸送には、郡衙機構の関与する側面が大きかったといえるのではなかろうか。
 「丸部足人解」で東大寺が派遣した足人などが郡司に駆使されているのも、右のように考えると理解しやすい。なぜなら彼らが関与した荘園は、産業所の責任者が生江氏であったことから、足羽郡にあったとみられるからである。そうであるなら、丸部足人と大領生江東人は造東大寺司で旧知の間柄であり、その関係で東人に駆使され、また秋田にまで派遣されたというような事情が考えられよう。



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