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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    二 交易・交通
      荘園の稲穀輸送
 荘園からはそこで収穫された米が東大寺まで運ばれてきた。しかしその輸送の実態を物語る史料はあまり多くない。わずかに残された史料から考えてみよう。  正倉院に残る朱を包んでいる紙には、文字が書かれているものがある。これは不要になった文書を再利用したためで、丹裹文書とよばれている。そのなかに、ある官人の考課にかかわるものがある(寺一)。それは考中行事といい、勤務評定のために期間中に果たした公務を列挙したものである。おそらく舎人とみられるこの人物の公務中には、「催令開墾田五町」や「奉鋳大仏像供奉三度」などとともに「遣使十一度」というのがあるが、それには「運田直米遣越前国之類」との注記がある。これは「田直米」の運送のために越前に派遣されたことを意味するが、田直米は明らかに同国にあった荘園の地子米のことである。彼は墾田開発にも従事しており、荘園経営に参画していた人物であることがわかる。荘園の米を運京させるには、このように東大寺から使者を現地に派遣する場合があったのである。
写真93 「丸部足人解」

写真93 「丸部足人解」

 次に天平宝字四年三月「道守徳太理啓」(寺二八)は、道守荘の経営に関する文書とみられるが(安都雄足の私田にかかわる文書とみる説もある)、そこには荘田を分担経営していた勝部烏の収納稲に関して「敦賀津進料一千二百束、又其漕送功割用穎稲一百五十余束」という記載がある。これにより、烏が収納した稲一二〇〇束が敦賀津まで運漕されたことがわかる。そして、そのなかから功(労賃)が支払われていることから、雇用労働力によって運漕が実現していたわけである。
 ここで敦賀までのコースを考えてみると、道守荘からは足羽川・九頭竜川を下り三国湊に至り、そこで日本海に出て、海岸沿いに敦賀に到達したとみられる。道守徳太理はこの稲については、右のように敦賀津まで運漕することに責任があったようである。
 ついで、やはりある荘園に関する同月の「丸部足人解」(写真93)は興味深い内容を含んでいる。すなわち、荘園の米を運送するために派遣された丸部足人が、生江臣古万呂の担当する御産業所では他人を使いながら足人と物部安人を使わないため、その隙をねらって郡司らが彼らを雑役に駆使し、しかも阿支太(秋田)城へ米を運ぶ綱丁にされたため、都に米を運ぶことができないということを、弁明し訴えているのである。
 この丸部足人は他の史料にも登場する人物であり、東大寺の官人であり、物資の輸送にたびたびかかわったことが知られている。そのような輸送の専門家としての腕を買われ、彼は越前の荘園に派遣されたのである。彼が何らかの輸送手段を有していたか否かはこの史料からはわからない。だが、米という重量物を効率的に運ぶことを考えれば、先の「道守徳太理啓」のように船を使い水上輸送をしたことであろう。



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