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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    二 交易・交通
      楢磐嶋の交易
 荘園に関係するものではないが、越前の交易にかかわる著名な伝承があるので、ここで紹介しよう。それは『日本霊異記』中二四の「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁」にみえるものである。それによると、諾楽(奈良)の左京六条五坊の人楢磐嶋は、聖武天皇の時代に大安寺の修多羅分の銭三〇貫を借りて、越前の都魯鹿(敦賀)津に行き、交易して購入した品物を運び、琵琶湖を船で運搬して帰る途中、急病にかかった。そこで船を留め馬を借りて帰ろうとして、琵琶湖西岸を走る北陸道を南下し山代(山背)の宇治橋に至ると、閻羅王によって自分を召しに遣わされた三人の鬼に会った。しかし、家に連れて帰り食事を用意し食べさせたので、鬼は同年生まれの人を磐嶋の代わりに召していったため、彼は助かり九十才以上まで長生きしたという。
 これによると楢磐嶋は大量の銭を借りて平城京から敦賀にまで出かけ、交易を行っている有力な商人であった。『日本霊異記』は、仏教の因果応報を説くために、平安時代初めに薬師寺の僧景戒によって著された仏教説話集である。しかし、そこにみられる話の背景はまったく荒唐無稽なものではなく、当時の状況を反映したものとみられている。したがって磐嶋の実在性はともかく、彼のような遠距離を往来して交易活動を行う有力商人は実際にいたと考えてよい。
 そうした遠距離交易業者がめざしたのが敦賀であったということは、そこが大量の商品を仕入れるのに好都合の場所であったということを物語るものである。あるいは磐嶋は都で諸物資を仕入れて敦賀で売りさばき、それを元手に敦賀で品物を買い付けたとも考えられよう。越前における銭の未流通ということから想像される状況とは、いささか様相を異にする場が敦賀であったと思われる。
 そこは日本海側有数の津であり、越前国内の物資だけでなく、沿海諸国の産物が集まってくる所であった。第四章第三節でみたように、『延喜式』では北陸道諸国の物資が、敦賀津まで海路で運ばれてくることもあったのである。それは決して官物にとどまらず、交易をめざす私的物資も各地から敦賀にもたらされたことであろう。そして敦賀にはさらに、渤海をはじめ諸外国の物資がきていた可能性さえ考えられよう。渤海の使節が北陸道諸国に来着し、敦賀にはそれを迎える松原客館が設けられた(第四章第五節)ような状況をみると、大陸や朝鮮半島から商人が敦賀に来航した可能性も大いに考えられよう。敦賀はそのように広範な地域の諸物資が集まり、それをめざして交易業者も集まってくる場であったのである。



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