目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    二 交易・交通
      現物貨幣としての稲
 桑原荘の収支決算書をみていくと、物品の購入に関する記録がある。たとえば、天平勝宝七歳(七五五)五月の「越前国使等解」(寺三)では「買屋二間 價三百六十束」として、草葺東屋と板葺屋各一間を購入しているほか、「合買雑物廿一物 價稲四百五十四束」という項目は釜・斧・手斧・鎌・鍬・席・簀・木佐良・宇須など、工具・食膳具・容器などの購入を示すものである。また翌年二月の「越前国田使曽乙万呂解」(寺四)には「買板屋二間 價三百八十束」の記載がある。これらは荘園経営に必要なものを購入したことを物語るものである。
写真92 和銅開珎

写真92 和銅開珎

 これらの購入記録で特徴的なことは、いずれの場合もその代価が稲によって支払われていることである。この当時、和銅元年(七〇八)にわが国初の鋳造貨幣として作られた和同開珎が流通していた。ところがここでは、銭の姿はなく稲が用いられているのである。これは越前では、発行後半世紀ほどたったにもかかわらず、和同開珎があまり流通していなかったことを示すものである。
 第四章第二節で述べたように、養老六年(七二二)九月には、伊賀・伊勢・尾張・近江・丹波・播磨・紀伊とともに越前に対し、調として銭を出させることにした。この畿内周辺諸国に対する措置は、銭の流通の促進を図るためのものであった。こうした措置をとらなければならなかったのは、政府のもくろみに反し銭があまり流通しなかったためである。和銅四年十月に出された蓄銭叙位令も流通促進策の一つであるが、そこでは「夫れ銭の用たる、財を通じて有無を貿易する所以なり。当今百姓、尚習俗に迷いて未だ其の理を解せず。わずかに売買すといえども、猶銭を蓄うる者無し」と、銭の効用が人びとに理解されず、そのため銭があまり使用されていないことを嘆いている。こうした状況はたび重なる貨幣流通促進策にもかかわらず、その後もあまり変わらなかった。銭は都に近い畿内諸国ではよく流通したが、そのほかの地域ではあまり使用されなかったとみられている。
 そこで畿内周辺諸国での流通を図るため、先の銭調納税策が出されたわけである。そして実際に、越前の調銭の荷札木簡が平城宮跡から出土していることは、第四章第二節でみたとおりである。それではこれは越前で銭が広く用いられるようになったことを示すかというと、そうとは簡単にはいえないのである。なぜなら、調銭木簡は大野郡が貢進主体であったように、個人が直接銭を出したことを示すものではないからである。ここでは規定量の銭を準備したのは郡衙であった。納税者である各個人は規定どおりに銭を出したか、あるいはそれに相当する量の他の現物を出したかのどちらかであるが、銭の流通状況からすると、おそらくは後者の場合が多かったと思われる。各個人の負担した現物を郡衙で、何らかの方法で銭に替え、それを都まで納入したことを木簡は物語っているのであろう。
 桑原荘にみられる稲による支払いは、稲が現物貨幣としての役割を果たしていたことを示すものである。もう一度、天平勝宝七歳五月「越前国使等解」(寺三)に戻ると、そこに「合造作并修理舎八筒(箇カ)単功九百七十四人 充功稲九百七十四束<人別一束>」とあることが注目される。これは草葺東屋・板葺屋・板倉などを移築したり修理した際の人夫賃として、延べ九七四束を支払ったというものであるが、その単価は「人別一束」、すなわち一人一日稲一束であった。ここでは稲は労働の量を数字に換算し、またその労賃を支払う手段として、きわめて有効な手段になっていることがわかるのである。当時の越前はまだ銭が十分に流通しておらず、稲がそれに代わる役割を果たしていたことがここにも現われているといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ