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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      安都宅と私田経営
 天平宝字三年五月十日付「越前国足羽郡下任道守徳太理啓」によると、掾大夫(造東大寺司判官上毛野公真人)が荘に来て大溝を掘ろうとしたが、このとき佐官の田のなかにある樋との調整をどう図るかが問題になった。それについて徳太理は「宅の為に損無し」と報告している。この文書の裏が前述のように石山寺関係文書であることからすると、佐官とは造東大寺司主典である安都雄足のことであり、宅も雄足の宅と理解できる(吉田孝『律令国家と古代の社会』)。これによれば彼は造東大寺司に転任して以後も、越前に私田を経営していたことがわかる。これは当然、越前国史生時代に開発ないし買得によって入手したものであろう。その経営にあたっては、この文書の差出し人である足羽郡下任道守徳太理のような在地の人間を用いていたのであった。下任とは下級官人の卑称であり、徳太理は郡衙の官人の一員とみられている。彼と雄足の関係は、国衙と郡衙の官人同士というなかで、すなわち越前の律令官僚機構のなかで作られたものであった。
 ところでここにみえる宅については、同月二十一日付「越前国足羽郡書生鳥部連豊名解」(寺二二)が参考になる。それによると、足羽郡の書生である鳥部連豊名が安都宅の去年(天平宝字二年)の米七斛(石)五斗を梶取生江臣民麻呂に付して運ばせている。足羽郡の書生が運ばせているから、安都宅は足羽郡にあったことがわかる。これは先の田と同じように、彼が越前国史生であった当時に設けられ、帰京後も維持されたものであろう。それは雄足の私田経営の拠点になったのである。またそこにあった稲は、田からの穫稲のほか史生当時の公廨稲、あるいはそれらを元にした出挙により獲得した稲などが考えられよう。天平勝宝七歳九月二十六日付「越前国雑物収納帳」(公六)によれば、「阿刀舘」に公廨稲三〇斛が収納されている。この「阿刀舘」は先の安都宅と同じものであろう。
 このように安都雄足は、平城京へ帰任後も越前とのつながりを保ち続け、荘園経営に参画し続けるとともに、在任中に設けた宅を維持し、それを拠点に私田を経営したのであった。そしてその際、在地の有力者を組織して私田経営や稲の運用にあたらせたわけであるが、その人的関係は越前国史生時代に、まさに史生であることにより作られたものである。なお安都雄足の宅は、彼が別当を務めていた造石山寺所の近くの勢多(瀬田)にもあり、やはり私田経営や交易の拠点となっていたとみられている。これは越前に置かれた宅と同じ性格のものといえる。



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