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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      造東大寺司主典安都雄足と越前とのつながり
写真91 「越前国足羽郡書生鳥部連豊名解」(寺22)

写真91 「越前国足羽郡書生鳥部連豊名解」(寺22)

 天平宝字二年正月から六月の間に、越前から再び平城京の造東大寺司に戻り、その主典になった安都雄足はその後も越前とのつながりをもち続けた。それを物語るのは正倉院に残る造石山寺所関係文書である。石山寺は大津市にある寺だが、天平宝字五年十月から翌年五月まで平城宮改作のため淳仁天皇・孝謙上皇は大津の保良宮に行幸した。これにともない石山寺の造営が天平宝字五年末から翌年にかけて行われたが、それを担当したのは造東大寺司の管轄下にあった造石山寺所であった。そしてその別当には造東大寺司主典の安都雄足が起用された。
 その別当在任期間に造石山寺所で作成された文書をみてみると、裏も文書として利用されている。これは不要になった文書を反故紙として、その裏を造石山寺所で再利用したためであるが、その裏文書、すなわち先に書かれた文書をみていくと安都雄足と関係深いものが多い。そのなかには彼宛てに越前からもたらされた文書も含まれている。当時は紙は貴重であり、一度使ってもそれが不要になれば、裏を使うということがよくあった。彼も造石山寺所での事務帳簿などを作成するにあたって、奈良から持参した不要文書の裏を利用したのであった。
 造石山寺所関係文書の裏文書である越前関係文書には、天平勝宝六年閏十月「検米使解」(公五)、同七歳九月「越前国雑物収納帳」(公六)、天平宝字二年七月「越前国田使解」(寺一四)、同三年四月「生江臣息嶋解」(寺一八)、同年五月「越前国坂井郡司解」(寺一九)、同月「越前国足羽郡下任道守徳太理啓」(寺二〇)、同月「越前国足羽郡少領生江臣国立解」(寺二一)、同月「越前国足羽郡書生鳥部連豊名解」(写真91)、同月「太諸上宿置米注文」(寺二三)、同四年三月「道守徳太理啓」(寺二八)などの文書がある(岡藤良敬『日本古代造営史料の復原研究』)。
 これらをみていくと、安都雄足が造東大寺司主典として奈良に戻って以後も、越前と関係をもち続けていたことを物語るものがある。そのなかには道守荘の経営にかかわるとみられる文書がある。しかし、これらの多くを雄足の私的経営に関する史料とする説もあるが(小口雅史「安都雄足の私田経営」『史学雑誌』九六―六)、ここではそのうち確実に彼の私田経営を物語る史料についてみることにしよう。



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