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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      国郡司と荘園経営
 このようにみてくると、安都雄足が造東大寺司舎人から越前国史生へと転出したことの背景には、同国での荘園経営を有利に運ぼうとする造東大寺司の意向が働いていたとみられよう。生江東人が造東大寺司史生から足羽郡大領になったのも、雄足が国史生になったのとほぼ同じころであった。すなわち、造東大寺司はそこで働く史生で、越前の郡司の子弟であった東人を足羽郡大領として帰国させるとともに、舎人であった雄足を国史生として越前に送り込んだのである。当然二人は平城京において、旧知の間柄であったとみられよう。そしてその両者の連携の下に、荘園の経営を円滑に進めようとしたのであった。  その際、先にみたように雄足が東人と田使を率いることが期待されたように、律令官制にのっとって国司の一員雄足が郡司東人の上に立つことが求められたのであった。当時の彼らの位階をみると雄足は天平勝宝二年八月段階で少初位上、天平宝字二年十月には正八位上であった。一方の東人は天平勝宝元年五月には大初位上、天平神護二年九月には正六位上であったことが知られる。二人が並んで越前に現われる天平勝宝から天平宝字年間にかけての時期の位階はわからないが、右のような傾向からすれば東人のほうが上だったとみられよう。しかしそれにもかかわらず、下級国司の雄足が郡司の長官である東人の上に立ったのである。
 このことは造東大寺司が律令制の地方官僚機構を利用して、荘園経営を行おうとしたことを示すものである。荘園の占定にあたっても、寺家使とともに国司・郡司が参画したことはすでにみたところであるし、墾田・溝の開発や賃租・出挙により荘園経営を進めるにあたり、農民を組織するためにも律令官僚機構を動員できることはきわめて有利である。とりわけ生江東人は前述のように、たんに地方官僚というだけでなく、伝統的な在地豪族の一員という側面ももっており、農民を荘園経営に動員する際に、前者の面とともに後者の側面も大きな役割を果たしたことであろう。  造東大寺司による越前荘園の経営の特徴は、このような国司・郡司という律令地方官僚機構を十分に活用するという点にあり、そのために越前に送り込まれたのが、安都雄足と生江東人であったのである。



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