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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      桑原荘経営への参画
 越前国史生であった当時の安都雄足は、越前にあった東大寺領荘園の経営に携わった。その様相は生江東人の項でみたように、坂井郡桑原荘でうかがうことができる。天平勝宝七歳五月三日付「越前国使等解」(寺三)には、「専ら雄足、件の二人を率いて」とあり、造東大寺司は安都雄足が田使曾乙麻呂と足羽郡大領生江東人を統率して、桑原荘の収支決算書を作成することを命じている。このことは国史生―郡大領・田使という関係で同荘の経営を進めることを、造東大寺司が期待したことを意味する。実際には、この期待は田使曾乙麻呂の独断専行により、なかなか実現しなかったのであるが、天平宝字元年十一月になると、安都雄足と生江東人の連名で、不備により還却されていた数年分の収支決算書の再提出が行われ、それに対する造東大寺司の返抄も「越前国史生阿刀宿所」あてに出されていること(寺一〇)は、その期待が一応実現したことを意味する。また翌十二月には「桑原三宅収納稲」の実入りの悪さについて、造東大寺司の判断を仰ぐ「越前国使等解」を安都雄足の名で出している(寺一一)。これも、同荘の経営の中心に安都雄足がいたことを物語るものである。
 このように安都雄足は史生として越前に赴任していた期間、桑原荘の経営に携わり、当初は曾乙麻呂の独断専行を許す消極さがあったが、後半期はその中心的位置にあり、ここに造東大寺司の期待は実現したといえる。



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