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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      越前国史生安都宿雄足
 先にみたように、桑原荘の経営に生江東人とともに携わっていた人物に安都雄足がいた。彼は当時、越前国史生の地位にあったが、史生としての彼が史料に現われる最も早いものは、天平勝宝六年閏十月の「検米使解」(公五)である。そこには国司・医師・国分寺などの公廨米の配分量を記してあり、史生「安都宿男足四十斛八斗四升八合」と彼
の名も登場する。
 これ以前の安都雄足については、天平二十年九月二十一日に「一切経音義廿五巻」を内裏に奉請した時の使者「舎人阿刀男足」(「経疏奉請帳」『大日本古文書』一〇)、天平勝宝五年二月十日にやはり内裏から「楞伽経一部四巻」を奉請した使者「阿刀雄足」(「間写経本納返帳」『大日本古文書』九)などとみえ、それぞれの表記は異なるが、彼が姿を現わす史料として知られる。これらはいずれも造東大寺司の写経所にかかわる史料であるから、当時安都雄足が造東大寺司の舎人であったことは明らかである。とすれば、彼は天平勝宝五年二月から翌年閏十月までの間に、造東大寺司舎人から越前国史生へと転任したことになる。そしてその越前国史生であった期間をみると、天平宝字二年正月十二日付「越前国坂井郡司解」(寺一二)の奥にある造東大寺司判の部分に「更以正月廿九日、付国史生安刀男足下告」とみえるのが、最も新しいものである。その後同年八月十一日付「越前国司牒」(寺一五)では宛所が「造東大寺安都佐官所」となっており、差出しは掾内真人魚麻呂とともに史生大和連広公である。一方、天平宝字二年六月二十一日から始まる「写千巻経所銭紙衣等納帳」(『大日本古文書』一三)には、初日から「主典阿都宿雄足」が検納し、自署を加えている。この主典は造東大寺司の主典であることから、先の造東大寺司安都佐官は主典安都雄足をさすと考えてよいことになる。
 こうしたことから、安都雄足は天平宝字二年正月から六月までの間に、越前国史生から元の造東大寺司に戻り、その主典になったことがわかる。したがって彼は天平勝宝から宝字年間にかけて四、五年間、造東大寺司から国史生として越前に赴任していたのであった。



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