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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      生江臣家道女
 生江東人と同時代の女性について、ここでふれておこう。それは足羽郡江下郷の人、生江臣家道女である。東人の一族に連なる人物であろう。彼女は天平勝宝九歳五月、願主として母生江臣大田女とともに法華経一〇〇部八〇〇巻、瑜伽論一部一〇〇巻を東大寺に貢上している(写真90)。それから三九年後の延暦十五年(七九六)七月、彼女は世に「越の優婆夷」とよばれていたが、常に市で妄りに罪福を説き、百姓を眩惑したとして弾圧され、本国に送り返された。家道女が長年活動の舞台とした市は、地方の市もあろうが、平城・長岡・平安京の東西市がその中心であったろう。
写真90 「生江臣家道女貢進文」

写真90 「生江臣家道女貢進文」

 大量の写経はかなりの財力がなければ実現できるものではない。やはり彼女は有力な生江臣の一族だったのである。そして東大寺への写経の貢上、その後の長年の京での布教は、東人を始めとする生江臣一族の、都城あるいは東大寺とのつながりが背景となって可能であったと理解することができよう。その意味で家道女は東人と同じ地平に立っていたといえよう。



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