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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      在地の祭礼と東人
 その一方で、今なお周辺農民とのつながりのなかにもいる東人の姿をかいま見せてくれるのが、前述の天平神護二年十月十九日付「越前国足羽郡大領生江東人解」(寺四一)である。そのなかに「雑務を論ぜんがため、田使僧等召すところ、参らざる二度の事」という一条があり、そこでは不参の理由の一つに、神社の春の祭礼で酔っ払ったため、身支度ができなかったことをあげて弁解している。大領の地位にありながら、東大寺の使僧の呼び出しに、酒のために応じられなかったとは、何ということかとも思えるが、もしこれが本当の理由であったとすれば、郡司にとって、神社の春の祭りがいかに重要であったかということが、浮かび上がってこよう。あるいはこれが、召喚を逃れるためのこじつけの理由であったとしても同じことである。
 ここにみえる「神社の春の祭礼」とは、その年の豊作を祈る祭であろう。それは『令集解』儀制令春時祭田条に引く大宝令の注釈書「古記」にみえるところによると、村中の男女が集まり、飲食を共にし、神に豊作を祈願するものであった(第四章第二節)。大領という律令国家権力機構の一員であるとともに、東人は伝統的な在地豪族生江氏を代表するものという一面をもっていた。そうした側面からは、在地の重要な祭はどうしても欠くべからざるものであった。たとえ、すでにかつての共同体の首長ではなく、天皇の支配を支える地方官僚としての側面が大きかったとしても、この祭礼に出ることによって、彼は在地農民との一体感を感じることができたことであろうし、またそうでなければ郡司としての任務も円滑には果たすことができなかったことであろう。ここには造東大寺司史生から、足羽郡大領へと転身した東人の、在地に定着した姿をみることができるのである。



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