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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      東人と道守荘の経営
 これに対し、足羽郡にあった道守荘の場合は違った様相がみられる。この荘園についても第一節で詳しくみたところであるが、ここでは東人が大領になる以前に、「私功力」で、すなわち私的な財源を用いて開いた長さ二五〇〇余丈に及ぶ溝と、その溝の水を用いて開いた墾田一〇〇町を東大寺に寄進したことが荘園形成にとって大きな役割を果たした。そしてこの溝は公川から水を引いたものであり、寄進以後も、「公私に障りなく勘定」してきたのであって、周辺農民の利益にも合致するものであった(寺四一)。ここに伝統的な在地の豪族としての東人の、開発のあり方の一特徴を認めることができよう。また、東大寺から荘園に関する問題点を東人に尋ねるため派遣されてきた「御使の勘問」に答えた、天平神護二年十月十九日付「越前国足羽郡大領生江東人解」(寺四一)によると、彼は私的に依頼して宇治知麻呂を水守にしている。
写真89 「越前国足羽郡道守村開田地図」






写真89 「越前国足羽郡道守村開田地図」




 さらに同月、東人は溝の掘削計画を、一族で寺使となっていた生江臣黒足・同息嶋、それに国使伊香男友とともに立てている(寺四〇)。ここからは生江臣一族が、潅漑施設の開発を行うことによって道守荘の経営に大きな役割を果たしていたことがわかる。同月二十一日付「越前国足羽郡道守村開田地図」(寺四五)をみると、道守荘の北側に多くの生江一族の墾田や畠がある(写真89)。しかも、足羽川が生江川とよばれたように、このあたりは生江臣氏の勢力が強く及んでいた地域であったことがわかる。そこでは東人が墾田を東大寺に寄進してからも、その土地の経営にかかわりをもち続け、実質的な経営の担い手であった。大領東人と農民とのつながりにも強いものがあり、荘園の賃租経営などにあたっても、生江臣氏としての伝統的権威と、律令国家の地方官僚である郡司大領としての新しい形の権力とが、相まって大きな役割を果たしたのであった。とりわけ郡司大領は、戸籍・計帳の作成や班田収授、また徴税などの局面において農民支配の要の位置にあった。その意味で、墾田を寄進した大領東人に、そのまま道守荘の経営を担わせた東大寺の意図は、一応成功したといえよう。なお、東人が大領として関与した足羽郡内の荘園はほかにもあった。東大寺が荘園経営の一円化に乗り出した天平神護二年には、先にふれたように道守荘において溝の掘削計画を立てているが(寺四〇)、そこでは同時に鴫野村における溝も計画している。
 先の「生江東人解」(寺四一)によれば、彼の働きはかならずしも東大寺の期待どおりではない部分もあったようだが、彼は常に足羽郡大領として、すなわち律令国家の官僚として東大寺に協力したのであった。このように東大寺の荘園経営の特徴は、律令国家の官僚機構を最大限に利用したところにあり、東人はその象徴的人物であったのである。そして、おそらくはその功績により東人は神護景雲二年(七六八)二月外従五位下の位を与えられ、外位ながらも貴族の末席につらなることができた。



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