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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      東人と桑原荘の経営
 足羽郡大領の生江東人が経営に参画した東大寺領荘園には、第一節でみたように坂井郡桑原荘と足羽郡道守荘とがある。しかし彼の二荘園へのかかわりようには、かなりの点で異なるところがあった。
 すなわち桑原荘では先に述べたように、自分の稲を提供して経営の礎を築くとともに、経営機構のなかでも越前国史生安都雄足の統率下、田使曾乙麻呂と共同で事にあたることが、造東大寺司によって求められていた。しかし実際は、乙麻呂の独断専行が行われていた。造東大寺司はそれを、天平勝宝六年二月七日・同年五月十四日とたびたび叱責し、本来の経営形態に戻るように求めている。だがその後も事態は変わらず、同八歳二月一日および九歳二月一日に桑原荘が造東大寺司に提出した過去一年間の収支決算書(寺四・六)は、乙麻呂一人の名で作られたものだった。これに対し造東大寺司は、この決算書の受取りを拒否し、その年(八月に改元して天平宝字元年)九月十五日に、改めて乙麻呂・東人・雄足の三人の名で、天平勝宝七・八・九歳の三か年分の決算書を再び提出するよう命じた。その結果が、三人に坂井郡散仕の阿刀僧を加えた四人の名で提出された天平宝字元年十一月十二日付「越前国使解」(寺八)である。そして、これが乙麻呂が姿をみせる最後となった。同日付で出された「越前国使等解」(寺九)は、桑原荘内の溝の開削、樋の設置計画書であるが、これは阿刀僧・東人・雄足によって出されたものであった。ここに曾乙麻呂は決算書の再提出を最後に解任されたとみられ、翌年三月二日付「越前国田使解」(寺一三)では、代わって田使尾張連古万侶が登場してくるのである。 こうした経緯をみてくると、生江東人は桑原荘においては、造東大寺司が期待したような十分な働きをしていないことがわかる。たしかに彼は経営の基礎となる稲は提供した。また、荘家を整えるために足羽郡から草葺板敷東屋と板葺屋を移築したが(寺三)、これも足羽郡大領であった東人の存在によって実現したものであろう。このような外面的な貢献はしているが、経営の実態は乙麻呂の独断専行を許し、荘園内部で積極的な働きをした形跡を見いだすことはできない。これはやはり、東人が坂井郡の人ではなく隣の足羽郡の郡司であったことによるものであろう。いくら大領ではあっても、他郡にまでその力を及ぼすことはなかなか難しかったし、東人自身あまり熱意もなかったのであろう。ここにかつての造東大寺司史生で、現在の足羽郡大領を桑原荘経営に起用した、造東大寺司の誤算があった。



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