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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      生江臣東人の出身
 この措置が出されて間もなく、東人は安麻呂の跡を継いだことになる。したがって、東人は安麻呂の嫡子である可能性が高いと思われる。東人は足羽郡の郡領の家に生まれ、都に出て造東大寺司に仕えたわけである。
 郡司の子弟が中央政府に仕える道にはいくつかあった。たとえば兵衛は、軍防令兵衛条によると、国司が郡司(少領以上)の子弟のなかから、強幹にして弓馬に便なる者を郡別に一人ずつ選んで、都に送ることになっていた。兵衛は「つわものとねり」とよばれる、天皇の身辺や内裏を取り囲む門などの、宮内でもとりわけ重要な場所を警備する武官であった。「とねり」とは本居宣長が「殿侍(とのはべり)」に由来すると考えたように(『古事記伝』)、本来天皇や王族に近侍する人たちであった。したがってそこには武官もいれば、文官もいた。文官の「とねり」は舎人とよばれ、内舎人・大舎人・東宮舎人・中宮舎人など多くの種類があった。下総国海上郡の大領・少領の地位を代々継承してきた家に生まれた他田日奉部直神護が、中宮舎人として仕えていたことがよく知られるように(天平二十年「他田日奉部直神護解」『大日本古文書』三)、舎人となる郡司の子弟も多かった。その本貫の地においてはいくら伝統的に大きな勢力を誇っていても、中央では下級官人にしかなれなかったのである。
 生江東人もおそらく舎人となって上京してきたのであろう。そして造東大寺司に史生として仕えるようになったと思われる。その彼が「寺家野占」の使となって、郷里の足羽郡に派遣されてきた。そこには現地の状況に通じているものを起用することによって、少しでも有利に事を運ぼうとする造東大寺司側の意図が表われている。
 ところがそれから三か月後に、父親と思われる大領安麻呂と寺田の占定にも参加した擬主帳槻本老の手によって、栗川荘においては占定結果に反する墾田「判給」が行われたのであった。きわめて皮肉なことではあるが、この父子の相反する行動は、中央の東大寺の論理と、律令国家の地方官僚であるとともに在地の伝統的豪族としての側面ももち、地域の人びとの意向・要求にも配慮しなければならない郡司の論理との矛盾というべきであろうか。
 もっとも最終的に天平神護二年九月に、この土地は寺田であると別鷹山も認めることになるが、そのことを申し出た「越前国足羽郡司解」(寺三四)は、大領生江東人以下の名で作られている。彼がかつて寺使として占定した土地をめぐる紛糾を、今度は郡司として決着をつけたことになる。ここにはやはり、東大寺の意向に添おうとする東人の姿がみえ、父とは違った彼の立場がうかがえよう。



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