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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      大領生江臣安麻呂
 ここで注目されるのが、天平勝宝元年に足羽郡大領であった生江臣安麻呂である。安麻呂はその年八月、擬主帳槻本老とともに大領として、西南四条七桑原西里八坊の地を上家郷戸主別鷹山の父豊足に「判給」している。天平勝宝元年は班田収授の行われる年、すなわち班年であったのである。しかし実はそれに先立って五月に、その土地に先に述べた平栄や東人などの寺家野占の使が来て寺地として占定し、栗川荘が成立していたため、土地の所有権をめぐってその後も紛糾が続くのである(寺三四)。わずか三か月の間に相異なる措置が、同じ土地に対してなされたことになる。しかもどちらの時も槻本老が立ち会っている。不合理としか言いようがないことではある。結局は寺地としての占定のほうが先だという東大寺側の主張が通り、天平神護二年に土地は東大寺のものという結論が出た。
 それはともかく、ここに安麻呂と東人とが登場していることは興味深い。東人は天平勝宝六年にはすでに大領の地位に就いているから、安麻呂は彼の前代の大領であったとみてよかろう。律令制下の郡司に任期の規定はなく、終身その地位に就いているものであったことからすると、安麻呂が亡くなるか老齢のため、東人がその跡を継いだものであろう。しかも郡領の地位は、代々世襲される場合が多かった。郡領の選任方法についてもいく度も変遷があるが、天平勝宝元年二月には、「郡を立てし以来の譜第重大の家を簡定して、嫡々相継ぎて傍親を用いること莫らしむ」(『続日本紀』同月壬戌条)という、譜代重視の嫡々相承主義がとられることになった。



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