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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      郡領氏族生江臣
写真88 篠尾廃寺・酒生古墳群遠景

写真88 篠尾廃寺・酒生古墳群遠景

 さて、ここで東人が属した生江氏についてみると、越前国足羽郡に多く一族が分布し、郡司を務めるなど在地の有力豪族であったことが知られる。そのほかにも、同国丹生郡、尾張国山田郡にいたことがわかっているが、前者は天平三年(七三一)二月二十六日付「越前国大税帳」(公二にみえる、丹生郡主政であった生江臣積多である。さらに同帳では、坂井郡の前に記載された郡の大領が生江臣金弓であるが、これは大野郡のこととみられる。後者は天平勝宝元年五月尾張国国分寺に智識物を献上した功績により、外従五位下を与えられた生江臣安久多である。彼らもいつの時期にか、足羽郡からそれぞれの場所に移動していった生江氏の一族であろうが、いずれもその地域で、有力な勢力を誇っていたことがうかがえる。
 このように、周辺地域に勢力を拡大していった生江臣一族ではあるが、あくまでその本拠は足羽郡であった。東人以前にも、生江臣安麻呂が天平勝宝元年八月当時、郡司の大領を務めていたし、東人以後では、天平宝字三年(七五九)五月段階で、郡司少領の生江臣国立、同郡梶取の生江民麻呂、さらには天平神護三年二月の郡目代生江臣息嶋・同長浜の存在など、郡司の長官・次官である大領・少領(合わせて郡領という)の地位につくことができる郡領氏族である生江臣一族の足羽郡での活躍は著しい。こうした有力な生江臣一族以外にも、臣姓を持たない生江氏も多く郡内に分布したことが知られる。福井市篠尾町で塔基壇が検出された篠尾廃寺は、白鳳時代初めに創建され、奈良時代後半から平安時代初めに荒廃したとみられるが、その周辺に分布し、県下最大の古墳数を有する酒生古墳群とともに、生江氏の築いたものとみる説もある。



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