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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      足羽郡大領生江臣東人
 次に東人が登場する時、彼は大きくその姿を変えていた。先のことから六年後、坂井郡
桑原荘の決算報告である天平勝宝七歳五月三日付「越前国使等解」(寺三)には、同荘の収入の一つとして「足羽郡大領生江臣東人より受くる所の四千七百八束」の稲が計上されている。
 この六年間に東人は造東大寺司史生という下級官人から、足羽郡の郡司の長官である大領に就任したのであった。そして桑原荘の経営に必要な稲を寄進しただけでなく、安都雄足の統率下、田使曾連乙(弟)麻呂とともに桑原荘経営に参画すること
が造東大寺司から求められていた。そのことが確認される最も早い時期は天平勝宝六年二月七日であるから、その時にはすでに東人は足羽郡大領になっていたのであろう。さらに足羽郡道守荘の成立には、彼が寄進した墾田が大きな部分を占めており、用水路も彼が開発したものを利用するなど、同荘では桑原荘以上に彼の果たした役割には重要なものがあった。こうした経営上の具体的様相は、すでに第一節でふれたところである。



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