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 第五章 福井平野に広がる東大寺の荘園
   第二節 荘園の人びとと中央との交流
    一 生江臣東人と安都宿雄足
      生江臣東人の登場
 東人が史上に初めて姿を現わすのは、天平勝宝元年(天平感宝元年、七四九)のことである。その年五月、越前国足羽郡に赴いた「寺家野占」の使である寺使法師平栄・造東大寺司史生大初位上生江東人は、国使の医師外従八位下六人部東人・郡司擬主帳槻本公老とともに、寺家のために墾田地を占定した。天平神護二年(七六六)九月十九日付「越前国足羽郡司解」(寺三四)は彼らによる栗川荘の荘域の占定を物語る史料であるが、彼らが占定したのは栗川荘に限らなかった。  第一節でみたように天平勝宝元年四月一日、聖武天皇は東大寺に出かけ、陸奥における産金を盧舎那仏の前に報告するとともに、諸寺に墾田地を許した。その寺ごとの具体的な面積は五月二十日に決定されたが、東大寺に施入された墾田地は一〇〇町であった。さらに八月には諸寺が占定してもよい墾田地の限度面積が決められ、東大寺は四〇〇〇町と決定された。  こうした一連の措置が、東大寺が荘園を占定し、また拡大していく契機になったのである。先の「寺家野占」の使の派遣は、その具体的な現われである。彼らは墾田地所有が許可されると早速に各地を巡っては、墾田地を占定していった。彼らが越中にも現われたことは、越中守であった大伴家持が五月五日に「占墾地使僧」平栄などをもてなした時の歌を『万葉集』に残していることからわかる(一八―四〇八五)。
  天平感宝元年五月五日、東大寺の占墾地使の僧平栄等を饗す。
  時に、守大伴宿家持の、酒を僧に送る歌一首
 焼大刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ
 越前に現われたのが五月、越中での占地が終わったのも五月五日であり、彼らが北陸道の国ぐにを次々と移動しながら、荘園占定の仕事を進めていった様子をうかがうことができる。  さて、もう一度「寺家野占」を行った人びとの構成をみると、東大寺を代表する僧の平栄、造東大寺司の官人生江東人、それに国司側の使者である国医師六人部東人、郡司の代表である擬主帳槻本老となっている。すなわち、墾田地の経営主体となる東大寺からは、僧侶の組織である三綱と東大寺の造営にかかわる俗官である造東大寺司の両方の使者が派遣され、それに現地側の国司・郡司が加わり、「寺家野占」が実施されたのである。  このように生江東人は、天平勝宝元年当時、造東大寺司に史生として仕え、越前に墾田地の設定にやってきたのである。



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